松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

ノーベル平和賞がどっちを

向いていようが、劉暁波の思想とは無関係である。


さて、第二点として丸川+鈴木は「やはり逮捕からノーベル平和賞に到る物事の連関を吟味する必要があろう」と述べる。*1

前の本は端的にこう題されていた「天安門事件から「08憲章」へ」。天安門事件という巨大な事件、その本質を明らかにし中国民衆のものにしようとする意志において、また祈りにおいて「08憲章」に到る劉暁波の思想と行動はある、とその本は言っている。
「逮捕からノーベル平和賞に到る物事の連関」それは、劉暁波08憲章が巻き起こした波紋にすぎない。わたしたちが劉暁波に注目したきっかけがそれであったとしても、それは日本人の問題であり劉暁波の問題ではない。

人権や表現の自由という理念それ自体に関しては、実のところ誰も反対していないのであれば、劉氏への受賞の理由「長年にわたり・・・人権問題で闘い続けてきた」こととはまた別のところで、授賞は劉氏と「〇八憲章」の思想にある国家形態の転換に深く関連してしまう、ということである。*2

悪文である。筆者の根性が汚れていることを表現している悪文である。
「人権や表現の自由という理念それ自体に関しては、実のところ誰も反対していないのであれば、」って一体何が言いたいのか?
「人権や表現の自由という理念それ自体に関しては、実のところ誰も反対できないということがある一方、実際にはいわゆる先進国を含め人権や表現の自由が犯される危険は常にある」のが踏まえるべき常識である。したがって問題点は「人権や表現の自由という理念に反対しない(と筆者が言っている)中国政府が、劉暁波表現の自由に対し有罪判決と拘束と処罰を与えていること」である。人権や表現の自由という理念に普遍性を認めるなら、国境を越えて中国政府に抗議する立場に立つことになる。
筆者が言うように「人権や表現の自由という理念に中国政府は反対していない」とすればなおさら、人権や表現の自由を犯すことがあってはならないはずだ。
「劉氏と「〇八憲章」の思想にある国家形態の転換」??「「〇八憲章」にある国家形態の転換の思想」と言いたいのか。「〇八憲章」には確かに多党制など国家形態の転換に関わる文言もある。しかしそれにだけ焦点を当てるべきか。それは当局の弾圧の視線に同致することであろう。「〇八憲章」は、国家が国民に開かれていくべきだという普遍的な立場に立とうとするものである。個々の条文はそのための手段にすぎない。

*1:p382

*2:p384