松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私は日の丸が好きです、について(補遺)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090621
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090624 の続き
Lunar_Landerさんへ

1点目

「日の丸が好きです。尊重するべきものだと心得ています。」という認識は、そうした事実(日の丸によって駆り立てられた戦争で多くの兵士が無惨に死んでいった)を隠蔽した上で、成立しているもののように思うのですが。(野原)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090621#p1

一点だけ質問です。
私が知っていること、あなたが知っている事は隠されてはいません。
公になっていることです。でなければ知りえませんから。
そうした事実を隠蔽した上で、とお考えの理由は那辺におありなのでしょうか。
できればその考えに至るまでの経緯と、ソースをご提示いただけますでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090621/p1#c1245582786

「公になっていること」って一体なんなんでしょうかね。「公になっていること」であれば、あなたと私の事実認識は一致できるはずとお考えでしょうか? そうではないことは南京事件論争などでも明らかですよね。
「そうした事実を隠蔽する」という文言で言いたかったことは、そうした事実が「公になっていない」(図書館の本で確認できる程度に)ということではありません。
日の丸君が代の制定(そして強制)のされ方、天皇の位置、「先の戦争」の総括の仕方、といったもの、いってみれば日本というものの神学的基礎が戦後64年も経ってもまだぐらぐらしたままのように、私には思われる。将軍が部下を大量餓死させたら、事情がどうあろうと将軍はその名誉を失うべきだと、私は考えます。わたしたちはそうした責任の取らせ方をしなかった。それは餓死した兵士の怨みの側にわたしたちが立たなかった、ということであり、そのような立場の集積は「餓死者の怨みを隠蔽する」力を持つ。私は以上のように考えます。

質問は私たちが知りうる事を他の人々も知る事が出来るか?でした。
できないのであれば、隠蔽されていると糾弾もできましょう。
いったい世間の人々(一般大衆)はそういう事が出来ない状態なのですか?

上記のように答えはできる、です。ただし普通のTVや学校教育では得られることはかなり限られています。入門に向いているのはご指摘の水木しげるの戦争ものでしょうね。図書館で本を探すとかまでは、世間の人々はあまりしないでしょうがね。

わけのわからない南の島で

それから南方地域をわけのわからない、と表現するのは日本(あなた)から見てのお話で 負の印象を言うのが問題だと考えます。
そういう場所で生まれ育った人がいたら、わけのわからないってどういう事だと
怒るのではないかと思います。
水木しげるとか、なじんで第二の故郷と言ったくらいだし。

「それから南方地域をわけのわからない、と表現するのは」日本兵に感情移入しようとしている私から見た見方であることは、ご指摘のとおりです。


「兵士たちのかなりの部分(約半数)は訳の分からない南の島で無意味に餓死または病死していきました。」この文章はちょっと訂正すべきですね。すみません。兵士たちが死んでいったのは南の島ばかりではない。ビルマやタイ・マレーシアや中国・満洲・アリョーシャン列島、広い範囲で彼らは死んでいった。「訳の分からない南の島で」は「訳の分からない南の島などで」に訂正します。
「そういう場所で生まれ育った人がいたら、わけのわからないってどういう事だと 怒るのではないかと思います。」
言葉尻の問題よりも、現地に「侵略」した経緯をわたしたちがどう理解したか、長い戦後の間現地にどう関わってきたかが、当然「そういう場所で生まれ育った人たち」の関心事でしょうね。
例えば、ニューギニア
・・・まず原住民側からいえば、1942年に突然島へ乗りこんできた日本兵は、同地では史上初めて接する有色外国人の集団であった。それも延べ十数万人の大集団である。それまで少数白人の支配の中で人間扱いされていなかったのに、日本人はこの点で違っていた。原住民の間に期せずして新たな侵入者に対する親近感が生まれた。(略)「戦場パプアニューギニア」中公文庫 p217
・・・
突然やってきた何万もの武装兵士。にも関わらずニューギニアの人は戦後も概ね親日的だったと伝えられています。ただ上記文庫は1993年刊行で、その後、親日度は減っているかもしれません。下のような記事もあるしね。
http://www.midori-kikaku.com/mariko/j-ist01.html
Lunar_Landerさんは「2.戦争について語るつもりがない事」とのことですが、公になっていることを知ることについては肯定的であるようですので、書きました。
(以上)