松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

窮極のマゾヒズムすら否定しない馬鹿たち

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051009#p3
ヤスパースの文章を引用しました。要点は次の通り、
a.純粋に軍人的で同時に人間的な精神は、むしろ人生の本質的な意義の礎石となる。
b.ただし、「邪悪な行為や明らかに邪悪な命令の遂行などのために汚される」ことがなければ。
これは次の引用ではこう語られる。
a.祖国に対する義務は、遙かに根本的なものである。
b.その時々の支配権に対する盲目の服従よりも
つまり、a.愛国心の肯定と、b.盲従の否定 ですね。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050910#p1
で、敗戦後天皇は退位すべきだった、と書きました。
天皇が退位しなかったことは、最高権力者は責任を取らなくて良いということであり、「その時々の支配権に対する盲目の服従」は正しい、少なくとも否定されるべきではない、ことを意味します。
日の丸・君が代に対する反対する人たち(私を含む)にとって、日の丸・君が代とは、日本の象徴であるというよりも、権威権力への盲従の肯定の象徴であると思われている。
「生きて俘虜の辱めを受けず」を掲げ、存在の最後の断片までを国家へ捧げることを正義とした戦争中の国家。わたしはこの間そのような日本を批判してきたが、論争相手になってくれた右派?の方のなかで、そうした「盲従」は断固批判しなければならない日本はもっと健全な国家になるのだ、と主張される方には出会わなかった。戦後の保守派に比べ、現在のプチウヨはその点で劣化している。美化された過去を前提として、愛国心を語るのだ。つまり盲従への批判がない。
東条なら「東条には66%*1責任があった」という命題を野原に主張させ、その命題の挙証責任を全面的にこちらに押しつけるという論法を多くのプチウヨは取る。皇国軍人百万人を餓死させた窮極の恥辱国家は、かっての日本ではないのだ。餓死者が20万人であればそれは、百パーセント私の命題の間違いを意味し、彼の恥辱感はゼロパーセントのままだ。

*1:例えば