松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「反原発デモにおける日の丸・君が代」問題(4)

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110814/p1 でArisanさんが、私が8/4以降に書いた「反原発デモにおける日の丸・君が代」問題について、書いておられる。
コメントしておきたい。
なお先行する私の3記事は、簡単なコメントともに末尾に記した。

まず確認しておきたいのは、君が代や日の丸というのは、それ自体が日本という国家の政治的な暴力性(過去の侵略、現在の排除性など)の象徴だということだ。

確認できない。
日本という国家は圧倒的に存在しており、君が代や日の丸はその象徴とされている。日本という国家というものに対して、あなたが政治的な暴力性(過去の侵略、現在の排除性など)というイメージを持つのは勝手である。しかし、「君が代や日の丸が日本の象徴とされている」という事実に対して、それは違う、日本という国家の政治的な暴力性(過去の侵略、現在の排除性など)の象徴だ、と言い張ってもそれは少数派としての自己確認にすぎない。
デモはそうした少数派という限定において行うべきものではない。


日本という国家が66年も前の戦争の評価に対して総括の仕方を失敗したことは事実だ。
しかし貴方の総括の仕方はセンチメンタルなものでしかなく、少数派すら組織するに足りないものだ。そんなものを前提にしてもらっては困る。

もちろん、立場や考え方によって、それを暴力と受け取らない人も居るであろう。

それを暴力と受け取らない人も居る>遅れた意識の奴らもいる、という意味でしょうね。自己の思想が普遍に開かれているかの問い返し、説得というプロセスがないね。

だが今の日本の街路で、日本人が(おそらく)多数を占めているデモで、日の丸や君が代が用いられるということは、それが国家全体の暴力性を体現しているものだと受け取られる可能性が高い。君が代や日の丸によってなされる統合から排除される位置にあると実感している人たちにとっては、とりわけそうだろう。

貧困者は、君が代や日の丸によってなされる統合から排除されているのかね?違うだろう。あなたはその問いに答えず、自分の意識に強い印象を与えているイデオロギー的存在が、社会の主要矛盾をそのまま表現していると思っている(単に目先のものに飛びついただけ)。

原発の問題の本質は差別の構造にあり、

私はそうは思わない。原発の問題で一番大事なのは、敵対性の確認であると考えている。安価でも安全でもない原発をそうでないと言い続けたいわゆる「原子力村」は普遍的存在ではないのに、国家の一部を占有し続けている。そのことを止めさせるのがまず第一の問題だ。

だが、侵略や差別というあり方を反省せず変えてこなかった日本という国が、まさにその「変えない」という目的の為にアメリカと従属的な関係を結び、

日本国家は「反省したくない」という倫理的動機の為に、アメリカと従属的な関係を結んだのか。「日の丸」あるいは排外主義という一つの本質が幽霊のように大活躍する社会観。*1 

日本においてはとくに「侵略・差別」(日の丸・君が代)と、「原発を容認する社会」との関連性は深いのだ。

日本社会は「侵略・差別」(日の丸・君が代)という原罪と「原発を容認する」という原罪、二つの共通点の多い原罪に冒されているわけだ。

本当は、そういう国家による(無意識的な)拘束に対する批判や拒絶のないところで、どんな表現も、力や自由に達することはないはずなのに。

この文章は正しい。しかし問われているのはArisanさんの思想なのだ。国家(特に例えば、石原や橋下)からニンジンのようにぶら下げられた「侵略・差別」(日の丸・君が代)に、喜んで飛びつくことが、国家による多種多様な(無意識的な)拘束の総体に向き合いそれを転倒しうる力量をもった思想たりえているかどうか。彼に不足しているのはこのような自問である。

だが、それらをデモの場で演奏したり掲げるという行為は、それが先に書いたような強い暴力性を有する行為であることを考えれば、容認するべきでないし、まして自分は絶対にそこに加担したくない。

日の丸・君が代が強い暴力性を持つというのは、Arisanさんの思想にすぎない。自己の思想によってデモに参加する多様な大衆の表現を規制しうるし、してもよいというのはスターリニズム官僚の発想であると私には思える。

自己が有する暴力(力)の次元に無自覚なままの、言い換えれば自己の他者との現実の関わりの次元に目を閉ざしたままの、「表現」者の意志が、日の丸や君が代によるパフォーマンスという国家的暴力への加担行為を選択すること、またそれが実際にはどんな表現上の効果も生み出せす、たんなる暴力の露出に終ってしまうことは、ぼくには必然的であると思える。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110804#p1 に掲載したのは「日の丸」その7/31のデモである人が掲げたものの写真である。
これについて、質問するので回答いただきたい。
1。これは「日の丸」によるパフォーマンスであり、したがって国家的暴力への加担行為である、と判断するのですね?
2。そして、たんなる暴力の露出に終ってしまった、と判断するのですね?

「政治色を脱する」とか「(政治的な)多様性を認める」という物言いが、

二つの事はまったく違う事だ。多様な人々がデモには参加する。多様な人々を共感させることができるプラットフォームを用意できるのか? それとも自己の一定の思想に過ぎないものを(暗黙のうちに)他者に期待して、閉じられたデモをしようとするのか? 後者を志向するのはおろかである、と私には思われる。


私の立場をもう少し書いておくと、日の丸君が代が好きな訳ではない。ただ日の丸君が代が嫌いなら嫌いですとか率直に言ってれば良いというものではないだろう。99年国旗国家法の成立を許してしまった自己。橋下による教職員への強化された抑圧に対して戦線を構築しえていない自己をなんとかしていこうとする苦闘なしに、他者をのんきに啓蒙して足りるとしているそうした存在様式に対して強い違和感を感じてしまう。


7/31の大阪デモをきっかけに書いた野原の文章。
1)http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110804#p1
「秩序は秩序であるという自同律に基づく君が代」が私たちの敵だ。したがってArisan君が代論は敵に届かず無効。
2)http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110806
また日の丸は百%悪というのなら、また「天皇は百%悪」にならないのでしょうか?その場合、解決すべき政治課題の困難さはますます大きくなります。「憲法1条」の元下でぬくぬくと生きてきた自分というものが存在する以上、自己の半身をまず「悪」として糾弾するプロセスを経ることなしに、まず他人を糾弾するのは、おかしいように思います。
3)http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110807
敵はイデオロイギー的排他的国家主義ではない。
★★
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/d7294ce037f19e279ce27c94f7622b91?fm=rss のデモの詳細な報告と、コメント欄でのプレカリアートさんと野原の対話も参照してください。

*1:8/7にも書いたが