松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

南都の僧兵が神輿を奉じて押し寄せてくる如く

北一輝の「國體論及び純正社會主義」はみすず書房の著作集でp435頁の大著。今回第四編『所謂國體論の復古的革命主義』だけ読んでみた。

北の言うところでは、「1〜3編」で、「社會主義に關する重要なる讒誣を排除し、其の根本の理論たるべき者の大要を説述した」と、つまり自分の主義の概要は述べたと。

所謂『國體論』という神輿による抑圧

ところが日本には、所謂『國體論』というものがあり、あらゆる新思想はそれに抵触しないかどうかチェックされる。
政論家も是れあるが爲めに其の自由なる舌を縛せられて専政治下の奴隷農奴の如く、是れあるが爲めに新聞記者は醜怪極まる便侫阿諛の幇間的文字を羅列して恥ぢず。是れあるが爲めに大學教授より小學教師に至るまで凡ての倫理學説と道徳論とを毀傷汚辱し、是れあるが爲めに基督教も佛教も各々堕落して偶像教となり以て交々他を國體に危險なりとして誹謗し排撃す。

現にこの本も出版するや直ちに発禁となってしまった。北はそうした社会のルールと妥協し延命を図るのではなく、所謂『國體論』というものをあくまで思想のレベルで取り上げ、完膚なき批判を浴びせかける。

国体論者による迫害は、「南都の僧兵が神輿を奉じて押し寄せてくる如く、『国体論』の背後に陰れて迫害の刃を揮う。」と捉えられる。*1 
つまり神輿の中にはご神体つまり天皇そのものがいると考えられそれに反対することはすなわち非国民になる。その構造自体を北は批判する。

何となれば僧兵の神輿中に未だ嘗て神罰を加ふべき眞の神の在りしことなきが如く、『國體論』の神輿中に安置して、觸るゝものは不敬漢なりと聲言せられつゝあるは、實は天皇に非らずして彼等山僧等の迷信によりて恣に作りし土偶なればなり。即ち、今日の憲法國の大日本天皇陛下に非らずして、國家の本質及び法理に對する無智と、神道的迷信と、奴隷道徳と、顛倒せる虚妄の歴史解釋とを以て捏造せる土人部落の土偶なるなればなり。*2

このような弾圧を、「『国体論』というローマ法王の忌諱に触れると、その思想は絞殺される」という表現でも北は語る。
ローマ法王って何のこっちゃと思うが、ウィキペによれば「中世的な王国(regnum)が解体して近代になって生まれたのが国家(state)なのであり、近代国家の成立と共に、あらゆる世俗的及び宗教的権威から超越した理性的かつ絶対・万能であることを特徴とする主権概念が成立」と、書いてある。
明治国家をわりと良いものと捉え、中世的なものはその国家の本来性からの逸脱であるという考えるのが北であり、その背後にある国家観はかなりオーソドックスなもののようだ。「所謂國體論」は中世的なもの、つまり「ローマ法王」であり、また言葉を変えれば「現在の国体を破壊する復古的革命主義」である事になる。

主権は国家にある

北は、主権が君主それとも民主にあるのか?という問いは誤りだ、とする。国民と天皇は権利義務の条約をもって対立する二つの階級ではない。主権つまり、国家の「目的であり利益が帰属する権利の主体」は何か?君主でも国民でもない、国家自体だ。
国家についての考え方は2種類ある。
A.国家とは国土及び人民の2要素 天皇は国家の外にあり国家を統治するとする中世的考え。
B.国家とは国土及び人民と統治者の3要素
国家を人格となし統治権の本体とするなら、統治は国家によってなされる、ただし天皇の名前において、というだけのこと。
中世的考えを取らないならB.を取るしかない。

神武天皇後醍醐天皇同じなのは「天皇」という記号だけ

有賀長雄氏のごとく、神武紀元後14世紀も後に書かれた記紀に「皇孫就きて治らせ」とあるをもって、国体が定められた見るのはどうなのか?*3
14世紀間を逆進して憚らずとは、歴史家として不適切な判断だろう。神武天皇が今日の文字と思想において『天皇』と呼ばれない事だけは明白だ。その国民に対する権利も今日の天皇の権利あるいは権限を以って推及すべからざるものだ。*4
天皇という名前さえつけば 神武天皇後醍醐天皇明治天皇も、同じであるとはどうか。文字の発音が類似すれば、ソージャという兵士も、然うぢやという合点も同一なる意義の者だと、考えるようなものでばかばかしい。*5

日本国民は「万世一系」の一語に頭蓋骨を殴打されて悉く白痴となる

北一輝は決めセリフが得意*6で満載なのですが、ここでも抜き出しておきたいのは、この台詞。

學者なら誰でも、西洋諸國の國家を歴史的進化に從ひて時代的に分類して考える。ヨーロッパにおける知というものがそういうものだからだ。しかし「實に日本の國體は數千年間同一に非らず、日本の天皇は古今不變の者にあらざるなり。*7」といったことを改めて強調する必要があるのはどうしてか。
明治憲法第1条に「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」とある。これはたかだか天皇というものがある一家からずっと選ばれてきたというにすぎない。何かしら「天皇」なる本質が歴史を貫いていると主張しているわけではない。
しかるに例えば穂積八束博士は白く、「天皇は死する者にあらず、萬世一系連綿として延長したる天照大神其の者の生命なり」なんて神がかり的な事を急に言い始めたりする。

又彼の遠島に流竄せられたる天皇も統治權の主體にして國家なるを以て國家が謫居に於て死したることゝなり、彼の落髮せる天皇は統治權の主體を法衣に包みて寺院に入り圓頂の大日本帝國が木魚を叩きて唱名したるべき理なり。

天皇が絶対者天照大神其の者であるなら、遠島に流されて哀れに死んでいくというのもおかしい、と指摘している。

「由來、萬世一系の一語の爲めに一切の判斷を誤まり、日本國のみ特殊なる國家學と歴史哲學とによりて支配さるゝと考ふる事が誤謬の根底なり。(略)些少の特殊なる政治的形式によりて日本國のみは他の諸國の如く國體の歴史的進化なき者の如く思惟するは誠に未開極まる國家觀にして*8」と言う通りである。

國家は學説の公定權を有せず

學者は自由に憲法の條文を思考するを得べしとは、相矛盾せる條文は憲法の精神に照らして孰れかの取捨を決定すべき思想の獨立を有すと云ふことなり。故に憲法第二條と他の重大なる第五條及び第七十三條と矛盾せる如きに於て、各々其の憲法の精神なりと認むる所、國家の本質なりと考ふる所によりて自由に取捨するを得べく、彼の比喩的國家有機體説の思想を有する者、神道的信仰を有する者が第二條を取りて他の條文を無視することの恣なると共に、吾人は亦第五條及び第七十三條に注意を集めて第二條を棄却するに於て自由なるは、憲法の精神と國家學につきて法文の文字は強制力を有せざる者なればなり。*9

明治憲法下において、思想の自由はどのように構成しなければならない/することができるか? を示している。
明治憲法下には自由と民主主義がなく、戦後憲法は自由と民主主義を保証しているから大丈夫と信じている人が大多数である。これは日の丸君が代の強制が、合法的になされている点から見ても間違いであると指摘できる。
自由であれ何であれ国家が我々に何か保証しているから大丈夫と信じている、などということが、あれだけの敗戦を経験しながらなぜできるのか。この問いを持つものだけが北一輝を読む必要を感じるだろう。

国家の為に/君主の為に どちらか?

君主主権と国家主権ではやはり違いがある。

今日の國際戰爭は中世の如く君主の名に於て君主の利?の爲めに戰はれず、國家の爲めなりと云ふ。(略)
兵役の義務は國家の目的を充たさんが爲めに國家の分子が負擔する義務にあらずして、君主に所有さるゝ奴隷として所有主の處分に服從する者なりと解し、日露戰爭は日本帝國の目的の爲めにしたる所に非らずして天皇に歸屬すべき利?の爲に戰はれたる者と論ぜざるべからず。*10

天皇の赤子」の実態が「一銭五厘(で集められるくらい安価な「奴隷」)」であったというのは、この本が出てから40年ほど経った太平洋戦争期(「大東亜戦争」に実際に起こったことです。

北は所謂國體論(つまり天皇の赤子論)を批判することにより、国家の構成員たる一市民が国家に所有される奴隷になってしまう危険性を、遠く予言していた事になりましょう。

*1:P210

*2:p210

*3:『夫の豐葦原の瑞穂國は我が子孫の王たるべき地なり、爾皇孫就きて治らせ、寶祚の隆えまさんこと天壌と共に極まりなかるべし』『日本書紀』の天孫降臨の段。ここで天照大神は孫の瓊瓊杵尊らに、三大神勅を下したとされる。

*4:p217

*5:p219

*6:独特の乗りがある。口に出せる極めて論理的な文章なので、日本語ラップとか追求している人は研究の余地あると思う。

*7:p218

*8:p226

*9:p235

*10:p241