松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私の根源的な怒りをよびおこし

いま、この原稿用紙にかくという次元ではその追求を中断せざるをえない。私は何を表現したのであろうか。不確定さの極限からいえることは、私のかいてきたことと、かかなかったことが、相互に本文であり、註であること、および、この補完関係が、研究論文以外の領域でも私の根源的な怒りをよびおこし、それを突破する作業の原動力になることである。
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei

「不確定な主体による、不確定な表現を、不確定な方法で展開しつつある」正典化されたテキストをディシプリンの手つきによってあげつらうことによってもたらしうる価値は、もっと身近にわたしの体ですっと受け取りうるのではないか、という予感。
「根源的な怒り」とはなんであろう? わたしがこの文章から受けていた印象は静かな植物的な繁茂あるいは降下であったので、「根源的な怒り」は唐突に感じる。不確定を語り得るのは自分の内に何か確かなものがあるからである。「たしかなこと」とは書かれていないが、体制内で論文を書くという表現方法への絶望である。教室に閉じ込められて退屈している凡庸な生徒たちのように閉じられた与えられた制度から出ようとせず、退屈を退屈と名指すことすらできずに腐っていく頭脳たち。*1おそらく決して語られなかった「根源的な怒り」とはそういったものへの怒りであったろう。

*1:それは勤続30年の私のことか