松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

パワハラとしての教育

 この論文のはじめには、十数個の例文しか抽出していないけれども、かりに私にとって時間的だけとは限らない余裕があれば、そこに提出されるのは、試験、レポートなどの表現、その分析だけにとどまらない。この分析をやりながら、必然的に、試験の存在理由、語学教育の条件や研究との分裂に関する批判、他の教育労働や非教育労働との比較、使用した教材、授業のやり方に反映している体制や表現過程の構造などが問題になってくるであろうし、素材としての表現も、語学から、はるかに速い領域まで包括されてくるであろう。
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei

 試験(の回答)やレポートは評価され批判される。その前提としての試験問題や出題のし方もよりよい教育とは何かという視点から評価され批判されることがある。しかし、回答の方が必ず確定的で多くの場合数量的な評価(百点満点とか)を受けるのに対し、問題に対する評価は必ずあるとは限らない。学生−教師というものが、自動的に被評価者−評価者になる。その場合、その領域についての知識が学生にはないので、教師を評価するのは難しくなる。それでだけでなく、身分的人格的にも教師は学生よりも上とされ学生は教師を批判する権利がないとされる。しかしこのような学生−教師関係は決して自明のものではない。国民に対して一律の学知を強制的に教え込む近代教育制度の結果に過ぎない。「試験の存在理由、語学教育の条件や研究との分裂に関する批判、他の教育労働や非教育労働との比較、」などを問うことは、自己の存在条件を問うことにもつながってくる。
 この論文のはじめに置かれた十数個の例文は、試験といった知の強制的なあり方からの逸脱であり浮世離れしたものといった印象を与えるものであったが、〈風を孕んでいる〉ものでもあった。すなわち近代教育制度−自己の存在条件といった内圧を十分に孕んでいるものであった。