松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

何かを論じようと思えば論じられる

 いや、おそらくこの関係は逆にとらえるべきであろう。さまざまの領域で閉塞を感じている私は、偶然かすめて通りすぎる、どのような対象からも、この論文のテーマの根底を流れているような調子で、何かを論じようと思えば論じられるような段階に追いつめられているのである。私だけではなく、おそらく私にふれてくる一切のものが。従って、先に述べた不確定さ自体が情況的な音速性を帯びているはずである。
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 表現の不能あるいは逸脱をその主体の存在基盤の揺らぎとして聞き取ること。ハイネ論が松下にそうした方法を与えた。すると学生たちの落書きやささやきのすべても偉大な詩人の逸脱と同じ比重の表現として松下は受け取らざるをえなくなってしまう。
「私よりも激しく、記号や空白を残している例の中に、自分の仮装した問題を見出さざるをえない。」「このズレは逆用可能であり、表現論、組織論、情念論その他へ飛躍もしうるのであるが、まさに可能であるところで最悪の壁に衝突する。」
ここで松下は自分がそこに内在している権力関係が他者のと関係において決して乗り越えることができない落差を存在させていると言う事実に出会う。
 何かを論じようと思えば論じられる。しかし、論じることが不可能な命令を孕んでしまうという宿命と向き合うことが、むしろ情況的な音速性に忠実であることである。