不思議に明るい気持で、この瞬間は、
この予断を深化拡大していこうとすると、私の運動を支えている文体はその不確定な軽さを増大していくようである。軽さという場合、支え、運ぼうとするときの感覚と云うよりは、吹きさらしの断崖に立っている感覚に近い。対象にとりくもうとしながら抽出に抽出を重ねる操作をしてしまう私の内的な流れ、一方、その操作を一層加速させるように迫る外的な力。私は言葉を失って立ちつくしてしまうのであるが、不思議に明るい気持で、この瞬間は、ある詩の一行から無限に語り続け、行動し続ける時間と交換可能であると思い、また、この状態は、一種の権力に対する黙秘と同じ位相にあるとも思う。では、その詩はどこにあるか、その権力を打倒するために何をなすべきか。(松下昇)
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei
「対象にとりくもうとしながら抽出に抽出を重ねる操作をしてしまう私の内的な流れ」について二種類の理解がありえよう。「抽出に抽出を重ねる操作をする」事自体はだれでも行っているがそれを自覚することは少ないという側面。抽出に抽出を重ねる操作を自覚しそれを高度化することは松下にしかできないという側面。
「この詩を絵にかいてみるとすれば、使用する色彩が、ある系列にかたよってくる。」ある種の人はそういう風にしか詩を読めない。しかしそれは詩の間違った読み方だと指摘されるとき「言葉を失って立ちつくしてしまう」しかないが、次に「抽出を重ねる操作」の方に押し出される風圧を感じるだろう。瞬間的な〈始まり〉が持続として獲得されたとき、松下はプラトー(高原)に立つ。*1
・・・・・・私は言葉を失って立ちつくしてしまうのであるが、不思議に明るい気持で、この瞬間は、ある詩の一行から無限に語り続け、行動し続ける時間と交換可能であると思い、また、この状態は、一種の権力に対する黙秘と同じ位相にあるとも思う。・・・・・・美しい文だが、美しいと言ってはいけないのかもしれない。松下の巨大な巨大過ぎる「闘争」は、そもそも闘争ではなく、この〈プラトー〉から流出したものである。