松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

その不確定さの発生する場所から尖端に至る過程で交差する問題

 この文章より一年半前にかいた「〈第n論文〉に関する諸註」との連続性および飛躍の問題がある。「〈第n論文〉に関する諸註」が自分の研究領域の表現を総括することによって何かを語ろうとしているのに対し、いまかこうとするのは、その後の過程を基本的に動かしている生活の場、とくに労働の場において、いや応なしに接触する不確定な表現を総括することである。ここから何を開始するかは不確定であるにしても、その不確定さの発生する場所から尖端に至る過程で交差する問題は、極めて多岐にわたる。それは〈……〉のむこうの全てだといってもよい位である。その領域に突入するのは、やりたいことであり、やらねばならないことでもある。そして、この二つが一致するのは、白昼のように暗い季節には大変めずらしい現象である。
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 わたしは生活しているつまり、いや応なしに接触する人やものに対して軋轢しとまどい愛着している。これを考えようとしても漠然としすぎていて何をどうすれば良いのか分からない。いくつもの条件を(暗黙のうちに)満たしている必要があるのだと思う。不確定なものをそれでも何かがそこにあると感受することすら、わたしたちにはひどく難しいことだ。わたしたちは普通考えられている以上に仕事を通して世界を見ている。つまりあらかじめ自分の身についた問題意識で肯定的であれ否定的であれ対応していく必要のない物事は、一瞬異和感があったとしてもそれ以上それについて考えることができず、無視される。
 一瞬気になったものごとを言葉で構成された表現としてとらえる、そしてそれを転記してみる、というのが松下がここでやったことである。それがどうした。主題のはっきりしない落書きは十個集まろうと主題のはっきりしない落書きの連鎖に過ぎない。文学に転化するわけではない。それはそのとおりで松下はそんなことを考えていたわけではない。自分でも予想外なことであっただろうが松下はここで何かの〈初まり〉に出会って、驚いている。
 「みえない関係が みえ始めたとき、かれらは深く訣別している。」(吉本隆明「少年期」)というフレーズは当時広く親しまれていた。この文に逆向する形で、〈関係〉というよりもっと軽く不確定な表現たちに目を向けたとき、松下は学生たちそして彼らの背後にある全世界に対する愛を不可避的に発見してしまった。