松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

この論文のテーマをもてあましているのである。

 数年間にわたって、答案、レポート、書簡をどの表現を私に与えた表現主体は膨大な数になる。しかもそれ自体、全学生の極小部分にしかすぎない。かれらは、はじめに教室へ数十人の群に機械的に区分された存在として半年の周期で現われてくる。私は今まで授業や個々の存在の、かすかな記録としての答案やレポートを、早く処理し、眼前から去らせる対象として扱ってきた。しかし、これら全ての表現主体のとらえがたさ、不確定性は何か花束を投げこまなければすまない性質をもっている。更に、数多くの、私よりも本格的な論文を無意識にせよかきはじめている例、私よりも激しく、記号や空白を残している例の中に、自分の仮装した問題を見出さざるをえない。そして同時に、一すじのためらいが残る。即ち、私に刺激を与えた表現は、膨大な全ての表現から主観的にとりだされており、更に、一切の表現は出題における私の主観的な形式、内容の制約された上でおこなわれ、評価されている。また、個々の表現者は、他の表現を展望しえないのに、評価者である私にはそれが許されているという位相のズレがある。勿論、このズレは逆用可能であり、表現論、組織論、情念論その他へ飛躍もしうるのであるが、まさに可能であるところで最悪の壁に衝突する。バリケード内の落書にくらべてどうしても本質的な課題と思えない。そのため退屈な授業をきく学生のように、私は、祭の対極に近い生活のすきまを偶然かすめて通る、この論文のテーマをもてあましているのである。
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 労働とは何か? 短時間に沢山の人と出会いしかも本質的には出会わず、限られた隙間においてコミュニケートししかもその範囲では愛想良くそれを行うことである。日本にはお客様は神様であるという諺があるがこれはまじめに受け取ると労働という制度を崩壊させる危険な諺である。「私は今まで授業や個々の存在の、かすかな記録としての答案やレポートを、早く処理し、眼前から去らせる対象として扱ってきた。」労働として当然のことである。答案用紙の余白にいかに優れた表現が存在しようが設問とシンクロしていなければ1点のプラスにもならない。
 エクリチュールの伝統的な習慣と特権との断絶、主体の不確定性、逸脱や余白の擁護、といったものが文学研究の中核に忍びよってきたとき、その情況は何も知らないはずの生徒たちにも深く浸透し彼らの存在を照らし出していた。それは松下の問題意識の反照にすぎなかったかもしれない。「勿論、このズレは逆用可能であり、表現論、組織論、情念論その他へ飛躍もしうるのであるが、まさに可能であるところで最悪の壁に衝突する。バリケード内の落書にくらべてどうしても本質的な課題と思えない。」という文において松下が何を可能と考えていたのかは分からない。他者性を自己表現の内側に据えて作家への道を選ぶこともできるがそれは本質的な課題と思えなかった、ということだろうか。
 それにしても「この論文のテーマをもてあましているのである」とは何だ。論文とは一体誰に捧げるべきものなのか、業界外のわたしにはピンとこない。しかし何かそこには犯してはならない権威が存在し論文を書くとはその権威をパフォーマティブに再確認することであろう、普通は。松下はタブーを冒した。それにしてもこの文章が「不確定な論文への予断」としてなお論文であろうとしているのはなぜか。この文はなおも論文たりえているはずという内容を持っているのか?