松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

みち(道)について

字訓(白川静)をみてみよう。

「み」は神聖のものにつけて用いる語。「ち」は「ちまた」「いずち」など道や方向をいう古語。道は霊の行き通うところでもあり、またそこをうしはく*1「みちの神」があると考えられた。地域について「みちのく」「みちのしり」のようにいう。人の通行するところから、人の履践する方法や道理の意となり、その道理を教えるときは「みちびく」「みちびき」という。ミは甲類。

 ……うつせみの世の人なれば たまきはる命も知らず 海原の畏(かしこ)き美知(道)を 島伝ひい漕ぎ渡りて ありめぐりわが来るまでに 平(たいら)けく親はいまさね……[万葉四四〇八]


道(みち)の邊(へ)の草深百合(くさふかゆり)の花咲(ゑ)みに咲(ゑ)まししからに妻と云ふべしや 〔万葉一二五七〕


若(も)し国家(あめのした)に利(かが)あらしめ百姓(おほみたから)を寛(ゆた)かにする術(みち)有らば、闕(みかど)に詣(まう)でて親(みづか)ら申(まう)せ。  [天武紀九年]


吾がゆ後(のち)生まれむ人は我が如く戀する道に逢ひこすな ゆめ 〔万葉二三七五〕


夕闇は路(みち)たづたづし 月待ちて行かせ*2 吾が背子(せこ)その間(ま)にも見む 〔万葉七〇九〕


書生(ふみまなぶるひと)三四人(みたりよたり)を選びて、観勒(くわんろく)*3に学び習はしむ……皆学びて業(みち)を成しつ。  〔推古紀十年〕

 〔法華釈文〕に「径*4ミチ」、〔名義抄〕に「行・術・道・連・途・○・通・路・塗ミチ」の他に、なお約七十字にその訓を加えている。また「○導・○訓ミチヒク。賓ミチビク」の訓がある。道が神聖な、知られざる霊の支配するところであるとする観念は、中国の古代においても同じであり、そのため道路に関する字形は、その修祓(しゆうふつ)の方法を以て示されていることが多い。

 
 道(どう)は*5〔説文〕二下に「行く所の道なり」とし、字を会意とするが、首に従う意を説くところがない。道は金文の字形では首を携えて行く形で、導と同形。首はおそらく異族の者で、その呪霊によって、道を祓いつつ進んだものであろう。すなわち除道して導くことをいう字である。


(以下、除、途、路についての説明は省略。)


道・途・路はいずれも清められた道であり、わが国の「路の公」「道の君」なども、そのような職掌に関するものであったかも知れない。その道によって目的の地に達しうるのであるから、のち転じて途径の意となり、方法の意となり、また道理・道法の意となる。語の原義とその展開のしかたは、国語のそれと同じである。
『字訓』・みち p721 isbn:4582128122 C0581

長々と引用しました。
道を美知と表記することはわりと普通にあったことのようですね。宣長の作意かと思ったが間違いでした。
現在は、みち=道、道路 であり路や途は(ほとんど同音の英語roadも含めて)そのサブカテゴリーと考えられます。古代も基本はそうなのですが、約八十もの漢字に「みち」という訓をあてることが可能だったということは「みち=道」という観念が現在ほど絶対的でなかったことを示しています。
六つの例文でも、具体的な路(みち)はわずかに二例で、海上の経路が一例。他は、国を富ます方策、学業。我が如く戀する道に逢うことがないように決して!と歌いあげている歌は、きっと苦しい恋に悩んだのであろう折口信夫が「佳作」とマークしている。(口訳万葉集(下))意味は分かるのだがこの道はどう訳したらいいのか。いずれにしても儒教的な道理とといった用法はありません。


辞書の例文というもののその前にたちどまってつくづくと観賞することなどしたことがありませんでしたが、この6つの例文はさすが白川先生というべきかいずれも味わい深いものでした。
そして万葉の時代からさらに遡った時代には、「道が神聖な、知られざる霊の支配するところであるとする」感覚が存在したのだと白川先生は言うわけです。ちょうどRPGで道路の上を歩いていると比較的安全だが一歩外れると怪物がうようよ出てきて、みたいな感じかな。まあわたしたちはそのものを感受し理解することはできないわけですがそうしたこともあったのでありましょう。


それに比べて宣長の「みちはこの道」の歌は理が勝ってばかりで歌としての豊かが皆無である、かといって論理もないというひどい歌ですねということになるわけです。

*1:(神が)領有し治める。支配する。古代語

*2:別の本では「いませ」

*3:「602年に渡来、天文、暦本、陰陽道を伝えた百済の僧侶」らしいウィキペディアより。

*4:原文、旧字

*5:以下は古代中国語における「道」などの説明。