松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

天地間に生まれるもの、人より尊きものはなし

島田虔次『中国の伝統思想』は次のように「告諭」の引用から始まる。

「それ人は万物の霊とて、天地間に生まれるもの、人より尊きものはなし。殊に我国は神州と号して、世界のうちなるあらゆる国々、我国に勝れたる風儀なし」明治元年京都府が府下人民に与えた「告諭大意」の書き出しであるが、

これに対し中村光夫*1はこう評した。

この一節の文章に見られる奇妙な思想の混合は、明治人の心理を象徴しています。人は「万物の霊」であり天地間にあるもので「人より尊きはなし」というのは西洋の近代思想の反映であり、明治維新の原則であった「四民平等」の精神と表裏をなしています。この近代ヒューマニズムの主張が、一方において封建制度を打破する力として働きながら、他方「神州」の信仰と何の矛盾もなく結びつき……

これを読んで、大事な指摘だと感じる人はけっこう多いと思う。前半は正しいのに後半はトンデモになると。その「奇妙な取り合わせ」をどう考えるか。これは戦後を支配してきた自由民主党という名前の政党がむしろ自由や民主主義を保証する憲法を何とか改悪しようとし続けてきた事ともパラレルな主張だと、思う人もいるかもしれない。


だが、待ってくれ。「万物の霊」云々は本当に西欧近代の専売なのか。違うと、島田虔次は言う。

なぜなら、江戸時代の、否、明治中期ごろまでの書生たちにおいては常識中の常識であったごとく、「人は万物の霊」というのは儒教の古典のうちでも最もポピュラーな『書経』泰誓篇の言葉、そして「天地の生むところ唯人を尊しとなす」は、そのすぐ下に割り付けられた注釈の言葉にほかならぬからである。*2


こう言うと、いや中国古代の『書経』なんかに近代ヒューマニズムの思想があるはずがない云々と言い返そうとする人もいるかもしれない。でももちろんそれは反論にならない。
明治元年の告諭の文言がどこから来たのかを話しているのだから。それでもなお読者は分かりきらない不満を抱えたままかもしれない。
「天地間に生まれるもの、人より尊きものはなし。」が近代ヒューマニズムの思想でなければ何なんだ、古代の『書経』にあったのはいったいどういう思想なのかと問い詰めたいと、思うかもしれない。


結局、私たちはギリシャに淵源しデカルト、ルソー、カントと成熟してく近代思想だけは少し知っているが、それ以外の思想のことは知らないので判断のしようがない。
それにしても、テキストのベースにおいて中村の無知は明白である。

西欧近代にだけ普遍思想や人権思想があったわけではない。儒教においても普遍思想や人権思想にかなり近いものはあった。特に明治国家によってすべてを国家主義に吸い上げる思想が整うまでの長い歴史において。いわゆる右傾化の現在だからこそ、日本や中国の伝統の中にある普遍思想や人権思想にかなり近いものを発見しておくことはとても大事だと感じる。

*1:有名な文学評論家

*2:以上三つ p5『中国の伝統思想』より