松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

踊らばおどれ春駒の

はなばはね踊らばおどれ春駒の のり(法)のみちをばしる人ぞしる


す(澄)みすまぬこころは水の泡なれば 消えたる色やむらさきの雲


こころよりこころをえんと意得(こころえ)て 心にまよふこころ成りけり
 (一遍上人語録) p112-4より『仮名法語集』岩波日本古典文学大系 

「春駒のように、はねたければはね 踊りたければ踊るがよい」それだけで良いのであって、それが「法のみち」だなんていうのは言い過ぎだろう、という反応が予想される。「それだけで良い」のは現在だから言えることであって700年前には別の言い方で合理化する必要があったと弁護することもできる。
だが本質的にはどうだったのだろう。

跡もなき雲にあらそふこころこそ なかなか月のさはりとはなれ
(同上 p109)

名月を見たいと思っていると雲がそれを遮ろうとじゃまだ!でもそのとき本当に障害に成っているのは或ものを邪魔と排除しようとするそのあなたの我心だろう。といった趣旨の歌。
踊りたいはねたいという自然な心を動きを「妄念」と排除しようとするイデオロギーを否定し、「はなばはね踊らばおどれ」のよろこびこそ、“弥陀の御法(みのり)のよろこび”だと言おうとしている。
わたしたちの時代はむしろ「はなばはね踊らばおどれ」というより、踊りたくもないのに「踊らばおどれ」というイデオロギーにおどらされている気味もありますね。