松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

学校は勉強をするための場だ!

学校は、全生活を囲い込む施設ではなく、何より勉強をする場として位置付け直すべきである。


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自明のことを強調しなければならない日本のおかしな情況!


振り返ってみればわたしたち(ある子の親)にとっては最初に通わせた「教育施設」は保育所だった。親のニーズは預けることにある。小学校が始まり親が帰ってくる6〜7時までの時間を学童保育で過ごさせた。小学校4年になると学童保育が無くなったのでわざわざ自分たちで苦労して小規模な自主学童を試行した。中学校に行くと、将来の長時間残業に耐えられる下層労働者を作るため*1朝から夜まで練習時間の長い体育会系クラブに入れた。
一貫して親のニーズは預けることにあったわけだ。そうであるわたしが内藤さんに賛同することは矛盾していないか。
矛盾していない。

学校は生徒を市民社会の論理から遮断して独特の閉鎖空間に囲い込み、「みんな仲良く」生きることを強いる場となっている。何より「協調性」が重視され、不満も怒りも押し殺して順応することが求められる。

上記のように指摘される閉鎖性は、学校=善という前提が一切疑われないという前提の元に成立する。それに対し、保育所の前提は親のニーズであり、それは常に「倫理的にいかがなものか」との保守派からの攻撃に晒されるものとしてある。そのなかで子供の安全と自主性の尊重、友情などを控えめに育てていくといった営みである。それらは制度的に保証されておらずいつでも脱退が可能なものだ。学校にいくことはなんのかんの言っても絶対的に善である、という誰もが否定できない前提に支配されているわけではない。


わたしの出自は中高一貫の難関校だ。その6年間の目的は東大受験でありそれがその学校の99%であった。その子が学校に来ても来なくても受験に通りさえすればいいのだ。受験という目的を放棄することを含め生徒は全く自由である。批判もあるだろうがこの学校には本音と建て前の乖離がなく評価できる。*2

試験というものは、ふだんの出席をしていようがいまいができる奴はできるという平等性を持つ。これを不平等として是正しようとするのかしないのか?
そもそも「人格支配や身分的上下関係、内申や細かい校則、集団主義を進める学級制度など」というものは何のために必要なのか。止めてしまえばよいではないか。

*1:???

*2:わたしは勉強はあまりせずドストエフスキーセリーヌなど本ばかり読んでいた。でも難解な本を読むのも受験に必ずしも役立たないわけではない。