松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『人間の学としての倫理学』を読む(1)

倫理学とは「倫理とは何であるか」という問である。
P9 岩波文庫『人間の学としての倫理学isbn:9784003811047

倫理を政治や社会に置き換えた場合は違和感がない。政治学とは「政治とは何であるか」という問である。社会学とは「社会とは何であるか」という問である。それは政治や社会*1というものがわたしの外にありながらわたしに絶えず干渉してくる不定形な力の錯綜であり、そこからして「社会とは何であるか」と言う問は万人に共有されているといった前提があろう。
儒学とは「儒学とは何であるか」という問である。−−この場合は明らかにおかしい。「儒学とは何であるか」の場合は儒学の外から、儒学を仏教や老荘と比較したりその特徴をあげつらったりすることとまずイメージされる。しかし儒者にとって儒学とは、おのれの生の全体と不可分なおのれの思想それ自体である。対象を確定することからはじまる学とはまったく違ったものである。倫理も同じようなものだと思える。
「倫理とは何であるか」が隠すものと明らかにするものの総体が倫理だといってみたいほどだ。

倫というシナ語は元来「なかま」を意味する。(略)
…仲間…なかまは一面において人々の中であり間(あいだ)でありつつ、しかも他面においてかかる仲や間における人々なのである。P11

父子君臣夫婦兄弟朋友のことを儒教では五倫という。人倫は人間の共同態を意味する。

孟子によれば「人倫」を教えるとは、父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信、を教えることである。父子の共同態には「親」がある。「親」がこの共同隊における秩序である。しかし「親」なくば父子の共同態そのものは可能でない。従って「親」は父子の共同態を可能ならしめる根底である。父子の間に「まさに親あるべし」と言わずして、父子親有りと言うところに、右のごとき意味が看取せられる。p13

「つまり、人間は自由でなければならないし、神は存在しなければならない。そうでなければ、道徳は成立しないことになるだろう。*2とカントは考えたと言われる。倫理の根拠は「なければならない」つまり当為である。それに対し、和辻は、「ひとは関係のなかに生きる、関係は当為ではない」というところから出発する。それは理解できる。しかしそれならなぜ、和辻は関係というニュートラルな語彙を選ばず、倫理といういかにも当為あるいは「社会的に有益」くさい言葉を選んだのであろうか。倫理という言葉を、あるときは関係の意味で用い、あるときは(ほとんど)当為(あるべきもの)の意味で用いる、言葉の多義性を利用した、偽りの書であるのではないか。そのような警戒心をもってこの本を読んでいこう。
とりあえず、人倫は「人間共同態の存在根底たる秩序」と定義される。ここでわたしとしては秩序とは揺らぎ、遊び、冗長性といったもの*3を不可避的にともなうものではないかと提起しておこう。揺らぎ、遊び、冗長性を無理矢理抑圧する秩序思想は、最終的には集団自決とそれを美化する極限的マゾヒズムにおちいる。
倫理学とは、人間関係・従って人間の共同態の根底たる秩序・道理を明らかにしようとする学問である。p17」

*1:経済も歴史も

*2:http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card10188.html

*3:そしてある場合には反逆