松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私がいいあらわす時にだけコギトは真実だ。

http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20061009

中原さんの「不連続な読書日記」で、デカルトの『省察』二日目から、
「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」という文章が引用されていた。この文章は気に入ったのでコメントしてみた。

# noharra 『ごぶさたしています。野原です。
「「私は在る、私は存在する」 Ego sum, ego existo という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。」というのは正確でよく分かると思っていたら。・・・?上の文章を読むと私(野原)がただの馬鹿でみなさんひどく深遠なのだなあとびっくりしてしまいました。「私がそれを言い表すたびごとに」とは、言表のあいだに於いては「存在=真」はなりたつと必ずしも言えない、ということですよね。でもこちらの命題は過渡的でありどこかで消えていくのでしょうか?
よかったら教えてください。』

# noharra 『orion-nさん 丁寧なお返事ありがとうございます。
デカルトについて語る準備もないまま突然話しかけてしまい、とんでもないことをしてしまったのかとコメントを書いた後やっと引っ張り出した省察(世界の名著版、井上昭七・森啓訳)をぱらぱらめくりなながら考えていました。
 (何も分からないのですが、「ここはまだ省察の二日目の話です。ここにとどまることでひりひりするような思考世界(永井均さんのような)が拓かれるとしても、それはデカルトの思考ではありません。」について、わたしがもしデカルトに深入りしたとしてもここにこだわりつづけるのかもしれないな、と思いました。そこに永井均と何の関係もない言説をわたしがつむぐことができたならの話ですが。)
 省察を読んだとは言えない状態のなのでたんなる揚げ足取りにしかならないのですが、「言表と言表の「間」を考えることには意味がない」というのはおかしいのではないでしょうか。
 「私はある、私は存在する。これは確かである。だがどれだけの間か。もちろん、私が考える間である。なぜなら、もし私が考えることをすっかりやめてしまうならば、おそらくその瞬間に私は、存在することをまったくやめてしまうことになるであろうから。」と私の本では「いいあらわすだびごとに」の2頁後に書いてあるからです。
 ・・・対話を継続するための立脚点を確立できるかどうか分からないのですが、とりあえず。』

http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/ シャ ノワール カフェ 別館あるいは黒猫房主の寄り道
続いて、黒猫房さんも同く「不連続な・・」に言及していたのでそこでもコメント。

# noharra 『黒猫さん こんにちは。
わたしも中原さんのブログを読んで、「私が考える間」という<間>に注目しました。ただその注目の仕方は全く違うようです。
第二省察の部分については、全く平板に言葉通り読むこともできるのではないでしょうか。わたしというものはただ現象が写されるスクリーンの如きものである。そのようなあり方のことをいっている、と読んではいけないのでしょうか?』

 コメント欄は対話式になっているので私の発言だけ抜き出すのはルール違反かもしれない。だが今回は自分が何を語ろうとしているのか不分明なまま書き始めてしまったので、どうかご容赦ください。

『野原さんが書いている「現象が写されるスクリーンの如きもの」はたぶん「身体」(デカルトは情念=感情としての「こころ」を身体に含めている)のことだと思います。

 中原さんからのコメントの核心部分だけ転写しておきます。

 デカルトのコギトといえばその概要はまあ広く知られている。『省察』という本も疑うという行為を徹底的に遂行しようとした本で難しい哲学用語などはでてこない。しかし分かりやすくはないのであって、「疑う」ということでデカルトはいったい何をしようとしているのか?「たとえほんのわずかでも、何か確実で揺るぎがないものを見出すならば」その不動の一点でもって地球全体をも動かすことができる、とは本当なのか? デカルトが本当に何を考え何を遂行しているのか? ちょっと読んだくらいでは分かりません。
「我有り」は良いのです。わたしも中学二年生のときこれに気付いて〈何か〉に出会ったと興奮したものです。わたしの疑問は「我有り」がその次どう展開していくのか? 世界を基礎づけることなどできるのか? ということだったのです。わたしの愚かさのせいもあるのでしょうが、わたしのコギトはデカルトのコギトと違い一切展開せず二行目を獲得できないままわたしは老年に至ったのでした。
・・・
 いや話が逸れましたが。
他人が書いた本など読んで説得などされない、というのは確かに一つの才能だと自負しているのでありますが、自負するためには人の十倍くらい努力して貧しくても私なりのデカルトを提出しようと努力しなければならない。ところがわたしはその「努力」をすることが出来ずにぶらぶらしているわけです。
(ひょっとするとこれを「私的言語の必然性」というのでしょうか。)