松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私は思惟しつつある、ゆえに私は思惟である。

 というわけで、『省察』を腰を据えて読んでみようと言いたいところですが、どうもできそうにありません。
 ネットで「自己知をめぐるホッブスデカルトの対話」清水明 という論文を見つけたので、ちょっと読んでみよう。
 http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/newhuman/kiyou/c003/Shimizu%20A_003.pdf Shimizu A_003.pdf (application/pdf オブジェクト)
 ところで省察は1640年に書かれた。デカルトは1596年生まれだから、例えば中江藤樹(1608生)の十歳ほど上である。
 『省察』は出版前にメルセンヌ、アルノーガッサンディなど代表的な学者に批判してもらいそれへの答弁を付けて出版しようとした。そのうちの一人にフランスに亡命中だったホッブスがいる。
 ホッブスによる第二省察への反論というのがある。

 デカルトは第二省察において、欺く霊の仮定に抗し「私はある、私は存在する」と確言した。してその後、ではその確かに存在する私とは何者かと問い、「私とは思惟するものである」としたが、ホッブスはまずこの箇所に反論する。「私とは思惟するものである」これはよろしい。しかし、それに続けて「思惟するもの」を「精神、心、知性、理性」と言い換えることには疑問がある。「私は思惟しつつある、ゆえに私は思惟である、あるいは、私は知解しつつある、ゆえに私は知性である」という論証は正しくない。なぜなら、同じ論法で「私は歩行しつつある、ゆえに私は歩行である」とすることができるから、と。つまり、ホッブスによれば、デカルトは「知解するもの」と「知解する働き、すなわち知性作用、あるいは知性」を同一視している、一般的に言えば、基体とその作用ないし能力とを同一視しているというのである。
清水明

 上で書いた野原の疑問は「私はある、私は存在する。これは確かである。だがどれだけの間か。もちろん、私が考える間である。」と言われるときの「わたし」は意識でも主体でもなく、スクリーンの如きもの、中原さんの解説ではデカルトの「身体」にむしろ当たる物ではないのか? という疑問でした。「私とは思惟するものである」というよりもここではむしろ、思惟という行為が行為が投影されるスクリーンをわたしとよんでいるのではないか? と。
 ホッブスの問いはそこではなくだいぶ後になります。
「私は思惟しつつある、ゆえに私は思惟である」という論証は正しくないというのがホッブスの意見。ふむ。