松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

だれかが私を欺いているのであれば、

 ここで『省察』本文に戻ろう。

(1) けれども私は、世にはまったく何ものもない、天もなく、地もなく、精神もなく、物体もないと、みずからを説得したのである。それならば、私もまたない、と説得したのではなかったか。
 いなそうではない。むしろ、私がみずからに何かを説得したのであれば、私は確かに存在したのである。しかしながら、いま、だれか知らぬが、きわめて狡猾な欺き手がいて、策をこらし、いつも私を欺いている。それでも、彼が私を欺くのなら、疑いもなく、やはり私は存在するのである。(略)
 このようにして、私は、すべてのことを存分に余すところなく考えつくしたあげく、ついに結論せざるをえない。「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である、と。
デカルト 『省察二』 世界の名著p245)

 前段では、欺かれる客体の存在が立証されている。それと「ついに結論せざるをえない」と重々しく語られるところの「私はある、私は存在する」は同じものなのか。疑問である。確かなものを探して、見出すことができた。それはけっこうなことだが、ここで見出されたものは「必然的に存在するところの私」とはちょっと違うものだろう。
(続く)