松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

精神すなわち知性すなわち悟性すなわち理性

 さて、デカルトは当然野原の指摘のようなことは気付いていて、「私はある」と言ってみてもその「私」とは一体なんだろうという取りかかる。(世界の名著p246-247)
 私とは手足などの集合、身体であろうか。いや、身体は欺かれうる。栄養を取ること、歩行すること、感覚すること*1、も身体が欺かれているときは同時に欺かれる。

(2) では考えることはどうか。ここに私は見いだす、考えることがそれであると。これだけは私から切り離すことができない。
 私はある、私は存在する。これは確かである。だがどれだけの間か。もちろん、私が考える間である。なぜなら、もし私が考えることをすっかりやめてしまうならば、おそらくその瞬間に私は、存在することをまったくやめてしまうことになるであろうから。
デカルト 『省察二』 世界の名著p247)

(3) いまわたしが承認するのは必然的に真である事がらだけである。それゆえ、厳密にいえば、私とはただ考えるもの以外の何ものでもないことになる。いいかえれば、精神、すなわち知性、すなわち悟性、すなわち理性、にほかならないことになる。これらはいずれも、いまままでその意味が私には知られていなかったことばである。ところで、私は、真なるもの、真に存在するものである。しかし、どのようなものであるのか。私はいった、考えるものと。(同上)

 最初から要約すると、
(1)欺かれる客体の存在は疑いえないから、「私はある」。
(2)私から切り離すことができないのは「考えること」である。
(3)「考えるもの」=私は、真に存在する。
これに対して
(1’)「私はある」の私とは客体ないし〈主客未分〉ではないか?
(2’)「考えること」だけでなくなんらかの「身体」も私から切り離すことはできない。*2
(3’)「私は存在する、私が考える間だけ」なら、それは真に存在するとはいえない。
といった反論をすることができる。
(4’)
「私は思惟しつつある、ゆえに私は思惟である」という論証は正しくない。
という前述したホッブスの反論もある。

省察二」はあと、この本で248-254と七頁もあるが、物体を感覚することなどを話題にしており以上の問いに答えていないようだ。
(10/20朝記)

*1:栄養を取るのが植物精神、それに歩行と感覚が加わって動物精神となり、さらに考えることが加わって人間精神となる、アリストテレスやスコラ哲学においては

*2:コンピュータでいえば、出入力装置なしの演算装置と記憶だけでは、存在は認められない