松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

2006-10-19から1日間の記事一覧

「省察第二」始末(10/28記)

デカルトの省察第二 の残り8頁を読む余裕がなく9日間も経ってしまった。 きょう一応読んで考えてみたが、特に書くことがない。 (5) もし私が、蜜蝋に触れるということから、蜜蝋はあると判断するのであれば、またもや同じことが、すなわち私はあるとい…

私は精神である。

「もし神が私を欺くならば、私は存在する」、これこそ神に関して彼が何よりも先に考えたことである。このことを注意するのは、神が自分を欺くかも知れぬという、こうした思想を抱くことが些細なことではないからである。神は私を欺く力をもっているというか…

神に関してデカルトが何よりも先に考えたこと

しかしながら、絶対に人を欺く精神を仮定するところまで敢然として進んだ、あの最初の段階においては、以上のことはいっそう顕著であって、そこでは精神の全能力が決定的に吟味されるのである。(略)ついに精神は懐疑、疑いえざる懐疑、以外に何の働きも手…

精神すなわち知性すなわち悟性すなわち理性

さて、デカルトは当然野原の指摘のようなことは気付いていて、「私はある」と言ってみてもその「私」とは一体なんだろうという取りかかる。(世界の名著p246-247) 私とは手足などの集合、身体であろうか。いや、身体は欺かれうる。栄養を取ること、歩行する…

だれかが私を欺いているのであれば、

ここで『省察』本文に戻ろう。 (1) けれども私は、世にはまったく何ものもない、天もなく、地もなく、精神もなく、物体もないと、みずからを説得したのである。それならば、私もまたない、と説得したのではなかったか。 いなそうではない。むしろ、私がみ…

私は思惟しつつある、ゆえに私は思惟である。

というわけで、『省察』を腰を据えて読んでみようと言いたいところですが、どうもできそうにありません。 ネットで「自己知をめぐるホッブスとデカルトの対話」清水明 という論文を見つけたので、ちょっと読んでみよう。 http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/n…

私がいいあらわす時にだけコギトは真実だ。

http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20061009中原さんの「不連続な読書日記」で、デカルトの『省察』二日目から、 「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である…