松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「省察第二」始末(10/28記)

デカルト省察第二 の残り8頁を読む余裕がなく9日間も経ってしまった。
きょう一応読んで考えてみたが、特に書くことがない。

(5)
 もし私が、蜜蝋に触れるということから、蜜蝋はあると判断するのであれば、またもや同じことが、すなわち私はあるということが帰結する。(略)
蜜蝋が、視覚や聴覚からだけではなく、もっと多くの原因から私に知られるにいたり、それについてわたしの把握するところがいっそう判明になったとするならば、いまや私自身も私によっていよいよ判明に認識されるのだ、といわなくてはならない。なぜなら、蜜蝋の認識に、あるいは、他のなんらかの物体の認識に役立ちうる理由であれば、それらはすべて、同時に私の精神の本性をいっそう明らかにしないではおかないからである。
デカルト 省察第二 p254)

 ある対象のことを把握しようと苦労することは、対象と同時に私自身の構造を知ることをもたらす。例えば、C言語で何かをプログラミングしようとすることは、C言語というものがどういうものかという知識を身につけることと同時にしか行いえない。これはなかなか興味深い考察だ。

さて、上に掲げた4つの疑問を、軽く考えて見よう。(!?)

(1’)「私はある」の私とは客体ないし〈主客未分〉ではないか?
文章の前半、欺かれる対象としての私についてはそうである。
しかし「私が「私はある」と言うごとに」においては、言うという主体作用が取り上げられている。つまり文章としては首尾が整っていない。

(2’)「考えること」だけでなくなんらかの「身体」も私から切り離すことはできない。
 「身体」について考察するにしても結局、上の5で書いたように精神についての考察にもなってしまうと、デカルトは言うでしょう。

(3’)「私は存在する、私が考える間だけ」なら、それは真に存在するとはいえない。
設問は「「私が存在する」という命題が虚偽である可能性?」であるので、それが否定されたことによりデカルトは真理を手に入れたことになる。

(4’)「私は思惟しつつある、ゆえに私は思惟である」という論証は正しくない。
「一生に一度は、すべてを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たにはじめなくてはならない」p238(省察第一)という決意から、デカルトは出発した。くつがえし、はじめるは身体行為でもありうるがデカルトが始めたのは省察(思惟)であった。この出発点が少しづつ豊かになりながら反復されるのがこの本の構造。*1 強力な疑いは強力な「私=思惟」によって最初から支えられている。最初はデカルトが黒衣を着せて不可視にしているだけだ。なぜ「私は思惟である」といえるのか?という問いは、立てられていないので解かれてもいない。

「私は在る、私は存在する」命題は、ある条件の下においては必然的に真であり、
そうではない場合には「必然的に真」とは言い切れない。

でとにかく野原にとっては上記のような命題が興味深かったのでした。

 ある人が語らないあるいは語っても誰も聞かない場合、彼女/彼はサバルタンとよばれます。(http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061027#p1
と、同型の問題が、至高者である自己においても現れるというのは大変興味深い。
で、それ以上の展開はできないのです。

でもまあ省察を読むと、自己というのは至高者であるしかないといった事情が少し分かるので、元気になることもできるのではないでしょうか!

*1:第二までしか読んでないが