松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

(il y a)からの脱出

近代的思惟はデカルトのコギトから始まった。ところがレヴィナスはさらに始めがあるという。
実存者なき〈実存すること〉……
「諸存在も人々も、万物が無に帰した様を想像してみよう。その場合、われわれは純粋な無と出会うことになるのだろうか。万物のこのような想像的破壊の後に残るのは、何ものかではなく、ある(il y a)という事実である。」
(il y a)というのは、哲学的抽象的な無ではない。空爆の後のガザのように、アウシュヴィッツのように、破壊の土埃が静まらない臨場感をもったそうした具体的空間性の感触をレヴィナスはなまなましく伝える。(昨日のブログに載せたように)
次に、レヴィナスは覚醒=不眠を持ち出す。「もはや自分の囚われている覚醒状態から抜け出るいかなる手だてもないという意識」「何も目的もない覚醒状態」「そこに釘づけにされた瞬間、人は自分の出発点あるいは到達点といった考えをすべて失ってしまう。」「実存することはもうすでに安らぎであるような即自(アン・ソワ)ではないのだ。それはまさに一切の自己の不在、欠・自(sans soi)である。」
コギトを肯定的に受け取ることしか私たちは出発し得ないのに、レヴィナスにとっては、それが「眠りのなかに逃れることができない」という条件下のそれであった場合、到底いたたまれないようなそうした状態でしかない。
(il y a)*1をなんとかして抜け出して、ようやく意識(いわゆるコギト)にわたしたちはたどり着ける。

*1:ガザのようにけっこう広い収容所を抜け出すように