どれほど人々を救済してきたか
かなり前からハマスのテロ一回につき数百人(曖昧)を計算によって、論理的に虐殺してきたイスラエルは、そこでも暗黙の<法>を行使していたにすぎなかった。どの国家でも損害が賠償金額に換算され、罪は罰金に換算される。そのシステム化された法的換算がどれほど人々を救済してきたか考えてみるべきかもしれない。
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パレスチナ人が数百人殺されることが、「どれほど人々を救済してきたか」と、「坂のある非風景」さんは語る。
悪を解消するものがあるとしたら、精神分析をのぞけば法による数字への換算以外に解決がないというのが私たちの社会的な関係のみじめな真の姿である。システムが平和をもたらすのである。(同上)
「ハマスのテロ一回につき数百人(曖昧)を計算によって、論理的に虐殺してきたイスラエル」と「損害が賠償金額に換算され」ることを、「坂のある非風景」さんは等置してみせる。システムとはそれを意味すると。
平和、和平を求めると日本を含む列強はイスラエル地域になにがしかの介入を行ってきたが、その目的とされた「平和」とはまさにこのようなものであった。(ありつづけている)
さて、村上春樹はシステムではなく卵の側に立つと言った。「ハマスのテロ一回につき数百人(曖昧)」という等式の側には立たないと言ったわけだ。なるほど、まあそれはそう言うしかないでしょうね。
ただ彼らは道路を頭を下げて早足で横切る、そこに銃弾が飛び交っていることだけが違っていたと。しかし、道路に次々と車が走りぬけることと銃弾が飛び交っていることのどこに違いがあるだろうか。次々に道路を走りぬける車の恐怖を私たちは知ることができるだろうか。(同上)
日本のなかに、<ユダヤ人差別/パレスチナ人差別>がリアルに存在することに、ひょっとしてきみたちは感受性を欠いているのではないかね、と「坂のある非風景」さんは問いかける。けっこうな問である。
「ハマスのテロ一回につき数百人」という算術がそこにあるなら、それを糾弾するのがふつうだろう。だがこの方は糾弾することにより声が声帯が荒れることにだけ注意を集中しているようにも読める。不思議である。