松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

そこに(ある)

このようにあらゆるものを想像のうえで一掃した後に残るのは、何かあるもの(ケルクショーズ)ではなくて、イリヤ il y a (がある、それがそこにもつ=ある)という事実である。あらゆるものの不在が、ひとつの現前(プレゼンス)として、つまり、そこですべてが失われてしまった場として、大気の濃密さとして、空虚の充実として、あるいは、沈黙の呟きとして、立ち戻ってくるのだ。事物と存在とのこのような破壊の後には、非人称的な〈実存すること〉の「磁場」があるのだ。主語でもなければ、名詞でもないような何ものかが。もはや何もないときに、否応なく強いられる〈実存すること〉という事実が。
レヴィナスp14 「時間と他者」isbn:4588001787

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*1:『時間と他者』(1954)該当個所のもう少し長い引用が、次にある。http://www.ne.jp/asahi/village/good/Levinas.htm