松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

金時鐘「化身」について

金時鐘『化石の夏』のなかの一篇「化身」

かりに蛹から抜けきれなかった蝶がいたとして
小枝でそのまま乾いているとしても
翅はしだいに半身のまま風となれあっていき
あたりに飛翔を花粉のように弾き散らしながら
羽裏のあわいでさらされているだろう

だから蝶のかけらは
もはや蝶であることを願おうとはしない
舞いも装いもすべては自ら手放してしまったものだ
揺れるがままにそこのところで在りつづけ
ただただ己れの入定を見つづけようとする

威儀を正した標本の陳列からも
子どもがかざす捕虫網の情緒からさえも
飛翔の化身はかたくなに口をつぐみ
ひたすらに蝶でありえたことでのみ干からびていくのだ
音ひとつ ふるわせない
脱殻(ぬけがら)のまま

 

という詩だ。
この詩がわたしには一番分かりやすかった。

蝶が蛹から蝶になれずにそのまま乾いてしまう。だから飛ぶたびに自身が花粉のようにどんどん崩れていく、というイメージがまずある。蝶のようなふりをして飛翔してはいるが、蝶であることをすでに失った身であるのだから、舞いも装いもほんとうにはありはしないのだ。ただ舞っているふりをして揺れているだけだ。
「蝶でありえたことでのみ干からびていく」というのは難解だ。干からびたから見かけだけしか蝶でありえない、という話ではないのか?
化身というのが、朝鮮人が日本人に化けることという意味でもあるのか。であればうまく「蝶になった」日本人に化けおおせたことは、自身のルーツを失うことであり干からびることにつながる。しかし蝶に成れなければやはり、日本社会で生計を失い干からびていくことになろう。
冗談のようだが、在日を生きるとは存在の基礎的レベルでそのような、選択を強いられるがどちらを選んでも、「干からびる」といった体験であるのだ、と詩人は告げている。そうであることを、美しいイマージュとして展開している。
優れた詩だと思う。