松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

超越的価値の拒否(と教育基本法)

(承前: http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061121#p2

 判断を生の本質とすることは、また生を判断の本性とすることでもある。すなわち、一方では生は生たる限り、自らの価値判断を不断に下してゆかざるをえない存在だというのみならず、他方、判断は判断たる限り、個別具体的な生に基づかねばならない。つまり判断する主体たることが生の本質であるとすれば、逆に判断するというのは、じつはかかる個別的な観点としての生を引き受けることであって、決して上空飛翔的なものではありえないのである。判断が、自らこのような個別具体的な生の偶然性を自覚的に引き受けることは、他者の観点の可能性をも承認することではなかろうか? そして、自己主張を肯定的に引き受ける強力な生に対しては、彼が自ら判断者として立ち現れてくる限り、そのパースペクティヴは一つの可能なものとして私のパースペクティヴから判断されもすることになろう。<観点>という観念は、観点相互の変換の反事実的可能性の了解を含んでいるからである。しかるに衰弱した生は、判断を、とりうる一つの観点と見なさず、すでに実在論的に真偽が決定されている唯一の超越的価値の代弁・代理として振る舞わざるをえない。しかしかかる超越的価値は、観点を創造し主張することができない衰弱した生が、観点を自ら創造し主張する強者に対してルサンチマン的復讐を企てて、偽造したものでしかないのである。
(p85 田島正樹ニーチェの遠近法』isbn:4787210254

 急に哲学的難解な文章を引用したが、ちょっとズラすとこれは研幾堂さんの主張とそっくりだと私は思ったのでした。試みに上記の「生」を「民主主義」と置き換えてみる。

 判断を民主主義の本質とすることは、また民主主義を判断の本性とすることでもある。すなわち、一方では民主主義は民主主義たる限り、自らの価値判断を不断に下してゆかざるをえない存在だというのみならず、他方、判断は判断たる限り、個別具体的な民主主義に基づかねばならない。つまり判断する主体たることが民主主義の本質であるとすれば、逆に判断するというのは、じつはかかる個別的な観点としての民主主義を引き受けることであって、決して上空飛翔的なものではありえないのである。

 判断すなわち(国家意思形成の唯一の機関たる)議会の判断と理解すると、
議会は議会たる限り、個別具体的な民主主義に基づかねばならない。となる。今回の教育基本法強行採決は、野党との議論を途中でうち切って、「予定していた日程」の期限内に決定をしなければならないという当為に導かれたものであり、「議論を経た議決」を最終審級とするはずの議会が、「期限内に決定せよ」という空白の権威の支持に従う結果になったものであり、議会の自己否定である。といえるだろう。
 (ところで強行採決批判としては、60年安保のときの竹内好「民主か独裁か」が有名なのかな。一度読んでみよう。)

「すでに実在論的に真偽が決定されている唯一の超越的価値の代弁・代理として」の振る舞いが猛威を振るっているともいえるわけで、それには「愛国心」とか「国益」「国民の安全」というものが“空白の権威”に張り付けられその空洞を隠蔽するという効果を生むのであろう。

 先の例での「慈しみ」に相当するものが、基本法の「民主的精神」あるいは「民主主義」であるとしてみるならば、教師が「民主的」に振る舞い、教師と学生の関係は「民主的」なありかたを為し、そして学生が学習の結果身に着ける知識理解は「民主的」、つまり民主的思想の持ち主たる「学生」となる、このようなことを基本法は命令(法効果として予期)しているのだ、ということになろうが、(略)
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20061120 研幾堂の日記 - 理念法?

 さてここでまた乱暴な引用をするが、
教育基本法護持派が、「民主的精神」あるいは「民主主義」をニーチェがいう「唯一の超越的価値」としており、自ら(教師あるいはイデオローグ)がその特権的代弁・代理者として振る舞うことにより自己の権益を確保している、と、研幾堂さんが批判している、と読んだわけだ。乱暴すぎておこられるかもしれない。

 哲学的にはニーチェは一切の超越的価値を拒否してる。それに対し、研幾堂さんと野原は政治思想領域で話をしているのだ。ニーチェのほんの一部だけをつまみ食いして政治思想領域に利用しようとすることは危険である。にもかかわらず、こういうことを書いたのは、「通俗化されたルサンチマン還元主義」がこの十年以上の論壇の保守化の根底にあるような気がずっとしていたからだ。

正義を振りかざすことは「唯一の超越的価値の代弁・代理として振る舞う」ことであるが、それを否定してしまうことは、(矛盾や抑圧に満ちているがそれらを沈黙させることに成功しているところ)平静=秩序を結果的に支持してしまうことになる。

研幾堂さんは政治思想領域に限定して思考を進めており、ニーチェなど持ち出して混乱しているのは野原なのだが。教育基本法と「超越的価値」をめぐってたらたら書いてみました。