松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

議会主義とその外

http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20061122
研幾堂さんから、かなり長い文章を書いていただいきました。

研幾堂さんの主張は「議会思想が大事だ」、というものだ。

(1)そしてそれ故に、議会政治は、我々個々人が、自らの置かれた環境並びに条件の中で、自らの知識と予見的判断の的中度に左右されながら、時々の生存状態を結果的に得ている存在であることに、似通った在り方を社会全体の政治的仕組みとして持たせようとする思想であり、この類似性の中で構想されていく限りの(政治制度に関する)思想である。

ちょっと難しい。わたしたちはわたしたちを取り巻く(それほど大規模でない)諸関係のなかで自らの判断(その不確かさ)によって動き回ってその結果を受け入れている。それと似通った在り方を社会全体の政治的仕組みとして持たせようとする思想が、議会制度だという。
 (不勉強のせいだろうが)聞き慣れない発想だが、魅力的だと思う。

デモクラシーとファシズムとを、さほど対極的なものに看做す感覚がない。どちらも、近代社会(その経済的、いわゆる資本主義的体制と、そして思想文化的傾向、これもひとまず大括りに教養市民主義とする、とよりなるもの)のそれぞれ異なった様相が、この両者なのではないか、ぐらいに見ている。

これについては異議ありません。

これと、明治以来の日本に伝統的な政治思想、先だって紹介した尾佐竹猛の言葉をまた引くと、「議会政治は則ち共和政治、而して危険思想、(乱心賊子)といふのが永く官僚の頭を支配した三段論法であった。」という考え方とが、これは我々の中に、現在でも深く染み通っている「三段論法」である

 戦前と戦後の政治思想の差異を白と黒のように明確に対照的なものと捉える傾向が、いわゆる護憲原理主義であるとして、わたしはそれに組みするものではありません。
明治以来の啓蒙主義的官僚は常に(戦後も)、なんらかの「思想的優位」を自らが体現しているとして支配を行った。「民主主義は善だ」というだけの教説はこのような構造の上辺をなでることしかできず、無力だ。確かにそのとおりでしょう。


で、研幾堂さんは 私(たち)に対し端的に質問している。

あなたは、議会制民主主義はすなわちファシズムである、という意見をお持ちなのか?

 ファシズムとは何か? インテレクチュアルでない反応をすると、特定の人の人権がなんだか分からない理由により強引に侵害される事態の集積がファシズム。そうだとすると、東京都の根津公子さんの事例や
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060223#p1
http://www.din.or.jp/~okidentt/nedu05531.jpg(画像)
コピペしただけなのになぜか皆の関心を引いた「運転免許証に記載されている住所が違っている」だけで逮捕された事件
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061030#p1
などをみれば、「ファシズムはすでに到来している」といえる。野原のファシズムの規定をちゃんと述べて見よと言われるでしょうが、それに答えるよりわたしにはむしろそう言いたいという気持ちがある。それは議論の深化に反するただの宣伝だ、と言われるでしょうね。
ふむ。
結論として私は研幾堂さんの(1)の意見に賛成。
ただ、議会での議論を真剣に受け止めようとしないシニシズムが蔓延している現状を転回できないかぎり実効性がない議論と、言い切ってしまうこともできます。

 しかし、もう一つの、「適切な」判断は、知識あり、経験ある、有能で優秀な人によらねばならないのだ、特に国家の運営の如きは、そうしたものであり、議会はそのような人々を国家運営に携わせる仕組みとしては、不十分なものである、という考えに就いて見れば、民主主義的議会は独裁者、すなわち「適切でない」指導者を生むということを人が聞いた時、議会が政府運営に関与しないような仕組みにしておかねばならない、という「判断」へと導かれていくとは言えないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/ コメント欄

 と記される研幾堂さんの危機意識自体が、どうもわたしの立場からはよく分からず、うまく応答できないことになってしまうようです。

 もちろん、マルクス主義新左翼〜マルチテュード系の思想は、自己の根拠を端的に議会主義の外におきます。わたしもその傾向が強い。だからその立場を展開して応答すればよいのだがそれもできない。何故か?
(むちゃくちゃですが、疑問形でこの文章を閉じます。)