松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

万物はみな動く

プラトン曰く:ヘラクレイトスの亜流たち:かのエペソス一帯のそれを知ったかぶりしている人たちを直接相手にしたのでは、まるで狂人を相手にするのと少しも変わりがないのでして(略)なぜなら彼らは手もなくかの書物の方針通りの運動物なのでして、ただの言論にしろまた言論の問いにしろ、とにかくその上に立ち止まるということや、また静かに順番を守って問いつ答えつするということは、彼らには皆無であるといわんよりは、皆無以下なのです。(註:皆無以下とは奇妙な表現だが彼らがそういう言い方を好んでいたのだろうたぶん。)テアテイトス179E
万物はみな動く。とすると、人が何について答えるとしても、答えというものは、みな同様に正しいものになっちゃうんじゃないか。その答えをそうだと言ってもそうでないと言っても変わりないことになるのです。183A
万物はみな動く。A=Bといった発言さえ動くと考えなければならない。ヘラクレイトスは極めてラディカルにそうした思想を突き詰めていった。そして「あるものはある」という原理を立てたパルメニデスと激しく対立した。その激しい対立がなかったらソクラテス以下の哲学というややこしいものも生まれてこなかったのは確かである。と言われている。


さて、このように読んでみると、彼らはネトウヨやどっちもどっち派にかなり似ているとも思える。一つの断言に対し、絶えずそれをそうではありえないと相対化していく膨大な努力において確かに似ている。しかし、ヘラクレイトス派が流転を固執することに熱心で、それは彼らなりの知に対する誠実さだったのに対して、ネトウヨは自分自身の思想に対してすらシニカルでありおよそ誠実さを持っていない。しかし、そんな風に、目の前にいるネトウヨをダメとして軽々と無視してしまい、西欧先進の例えばフーコーとかに憧れるというのは実はおかしい。フーコーハイデガーもおそらくしょうもないといえばしょうもないギリシャの断片的フレーズから現代に新しい意味を汲み取ってこれると考えた。目の前にころがっているネトウヨのたわごとの連鎖が、それと違ってアプリオリに無視すべき言説だとするのは、自分で考えることができない事大主義にすぎない。
というわけで、どっちもどっち派の言説とかを、改めて取り出してまともに検討してみたい、などと考えてみたりした。しかし、敵はネットいなごのごとき大群である。きれいにピンセットで掴んで考察の対象にするところまでもっていくのが、けっこう大変かもしれない。今日の思いつきだけ、書いておこう。