松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

主体化/隷属化の効果

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関西大学で開かれていたクィア学会というものを、チラッと聞きにいった。
クィア学会第6回研究大会プログラム パネル「ヘーゲルフーコー・バトラー」 及びジュディス・バトラーと「脱身体化」の問い(藤高和輝)


で、「ヘーゲルの「不幸な意識」論を読む」ジュディス・バトラー、p104〜 「現代思想」2000年12月号をざっと、読んでみた。


・・・解放すべき人間像としてわれわれに示されているもの自体が、すでにそのもののさらに奥深いところで、主体化/隷属化の効果となっている。・・・
フーコーのこの言葉は『監獄の誕生』新潮社p34上段にある。
「人々が解放しようと促しているその人間像」とは何だろう? 解放されるべき人間なら分かり易い。わたしたちは大なり小なり不自由でありつまり奴隷でありしたがって、解放されるべきだ、これは西欧哲学だけでなく仏教や老荘にもある発想であり理解しやすい。

囚人の身体に(サド的)刑罰を加える時代と、抑圧的寛容を加える時代の差異、からフーコーのこの本は書き始められている。でどっちにしても「問題になるのはつねに身体である」p29。身体とその体力、体力の用途とおとなしさ、体力の配分と服従、が問題となる。

つまり、解放というより矯正することにより獲得されるべき人間像のことを言っているのだ。
身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるものが精神、とフーコーは言っている。スーツを着てネクタイを締め手を汚さずにはたらくことが自由である、現在の日本社会ではそうした常識がある。フーコーがここで言っている「精神」とは、スーツを着ている身体が持つ「普通オーラ」みたいなもの、なのだろうか?

つまり、東大に入学し大企業に就職しそつなく出世していくのが理想的人間像であるとして、そのような人間こそ、最も奥深いところで、隷属化の効果を受けている人間だ、とそうしたことをフーコーは言っているのだろうか。

神学者たちは長い間、最もリアルなものは、神に通じる精神だと言っていた。それを覆して、知や哲学的思索、あるいは技術で論じうるありのままの人間が問題になったわけではない。
「人々が解放しようと促しているその人間像」、それは(神学者たちの精神ではないものの)別の〈精神〉によって実在にまで高められたものなのだ。それは、むしろ、服従化=臣民化という不断の作用であると言える。

で、そのようなことについては、ヘーゲルはとっくの昔に言っているじゃないか、とバトラーは言っているようだ。

人は、外部にある「主人」を捨て去る、そのことにより、自分自身を倫理の世界に定位させるしかなくなる、つまり、種々の規範と理想に隷属するようになる。つまり「主体は、これら倫理の法を内面にむけて適用することによって、不幸な意識としてたち現れてくるのだ。」

・・・


大人になればあるいは会社に入ろうとすれば社会性やマナーを身につけるのは当然、それを服従とかいっていけないもののように言うのは、テロリストの類だろう、と普通の日本人は皆言うだろう。
「社会性やマナーを身につけるのは当然」という事自体は否定する必要はない。しかし、学校の卒業式での日の丸・君が代強制問題をはじめ、今回大きな問題になった「山本太郎の直訴問題」でも、「社会性やマナーを身につけるのは当然」をむやみやたらに強調することによって、ある超越=天皇の名前を利用した全体主義の支配を勝利させることができる、わけである。参考:BBCキャスター「エチケットはそんなに大ごとなのか」

欧米とは違った文脈において、このフーコーの一節を何度も読み返す価値はある、だろうと考えた。

*1:以下は断片的メモに過ぎません。