松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

 ここにいるのが「在日」

今日は、早起きしたので、なんとなくだらだらと文章を書いてみたい。
この間からのテーマは差別である。というか、むしろ差別という言葉があまりに蔓延し、それは物事を本当に考えていくのを邪魔しているのではないか、みたいなのが私の問題意識。

サルトルの「ユダヤ人」という本について確か有田とかいう哲学研究者が書いた論文上・下があって下を先に読んだ。*1


a/「ユダヤ人め!」と発語するだけで、人は偉大なるフランスの伝統と一体化する自己という効果を、パフォーマティブに獲得する、といった話。「朝鮮(人め)!」と発語するだけで、人は偉大なる日本の伝統と一体化する自己という効果を、獲得するといった話、と直ちに読み替えることができる。


b/ ユダヤ人は他者にアイデンティティを決め付けられる。

 民主主義的であるところの分析の精神からみると、結局「ユダヤ人は存在しない」ことになる。これではユダヤ人を守ることはできない。

 韓国人と在日といった二つのカテゴリーに対比した場合、サルトルユダヤ人は、後者「在日」に近い。つまり言語や文化、宗教といったものとそのアイデンティティを強力に維持する装置としての国家、その両方を「在日」とサルトルユダヤ人は欠いているのだ。((ショーレムベンヤミンあるいはレヴィナスといった人はユダヤ人の神秘的文化伝統の存在を身をもって明かしたが、サルトルはそうしたものと無縁でだった。)
 
c/ シオニズムに至る真正性は、祖国に留まりたいユダヤ人にとって害になる、とまでサルトルは言っている。
ユダヤ人は税金を納めることによって偉大さ=国家に貢献している。ユダヤ人が国民(ナシオン)に統合されようと夢見るのを、誰が非難できようか(この国民とは新生イスラエル国家ではなく、フランス国家のこと)


d/ 言論の自由:自由の敵には自由を与えない、がサルトルの考え方。
日本で今話題になっているのはヘイトスピーチに対する法的規制だ。「西欧では当然である」ヘイトスピーチに対する法的規制導入に、日本のリベラル多数派は懐疑的である。国家〜法(裁判所)〜官僚といったシステムは一般的には信用されているのだが、こと「言論の自由」については信用できない、と感じられている。日の丸君が代の強制を(誰に頼まれることもなく)推進したのが、文部省の官僚であることが影響しているだろう。
セクハラやDV防止についても議論はあったが、米国風の法的規制が導入され、成果は挙げていると思われる。セクハラやDVも今自民党の一部がこだわっている「家族重視という日本の伝統」を脅かすものではあるのだが。


以上、まとめると、
a.多数派が少数派を馬鹿にするというチープ(安価な)行為の喜び、これが出発点。
b.少数派は主に、a の体験への反発としてアイデンティティを獲得する。
c.「在日」は、韓国(朝鮮)の偉大な文化伝統の存在を頼みにしているが、基本的にはそれを学び近づこうとすることに熱心ではない(韓国文化では在日のアインデンティティ確立に役にたたない。)
(d はちょっと別の話)


(笑)・・サルトルってユダヤ人なのか、となんだか疑問なんだけど、違うようだ(なんと根本的勘違い!)

*1:有田英也、思想13-8、9 サルトルユダヤ人問題の考察』再読・上、下