松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

国家には自由が必要である

 日本人は一般に穏順で、事大主義的な人間も多いが、中には外国人にも見られないような不羈奔放な豪勇の士も少なくない。戦国時代の日本武士などはその一例である。シナや南洋にも渡り、ヨーロッパ人とも戦い、その豪勇と奔放さで外国人を驚嘆させた。(略)
 頼朝が鎌倉に幕府を開き勢威隆々たるとき、彼は歌人西行を招待して清談した。頼朝は記念に西行に銀製の宝物を贈ったが、西行はこれを門前に遊ぶ子供の玩具に与えて立ち去ったと伝えられる。西行の目には天下の武将を制する頼朝の権威は、空しいものにしか見えなかった。西行流の自由思想は、日本ばかりではなく東洋には根強い。この自由思想が、世俗の問題に現れて来ると一種のアナーキズムともなり、国家の統一を破る根強い作用をする。国家には自由が必要であるとともに、時に断固たる統一が必要である。アナーキストは、自由のみ求めて国による統一を拒否するが故に国家を否定する。しかし西行は、世俗の権力を無視したが、皇祖の神宮を拝しては

 何ごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

と詠じたと伝えられている。日本に世俗蔑視の自由思想は根づよくとも、アナーキズムは成長しなかった。かくのごとき日本の文化伝統は、脈々として明治以降の近代日本にまで及んでいる。

 近代の日本は少なからぬ自由奔放の人材を生んだ。武力にも金力にも決して服せぬ者、政治をも議会をも蔑視して憚(はばか)らぬ者、神仏も道徳をも畏れぬ者、法律にも世評にも拘泥せぬ者、さまざまの者を生んだ。中には文明的な自由人と称すべき者もあれば、野性的な猛勇の士もあれば、言語道断の無法者もある。それは決して同類の者ではないが、いづれも国家の意思統一という点から見れば、むつかしい連中である。しかしかれらも均しく天皇を精神的権威として仰ぎみとめた。かくて日本は、統一ある近代国家として発展することができたのである。(略)

 仮に“天皇なき日本”を想像してみるがいい。野党の側に立った豪勇不羈の徒は、決して国の統一意思に服しないだろう。服さないことをもって誇りとするだろう。日本には天皇以外の存在に服するのは、いやしくも男子としていさぎよしとしないといふ根強い文化伝統がある。天皇なくしては、これらの文化伝統は、日本を東洋的アナーキズムに走らせ、近代国家を形成させないであろう。国は乱れるに決まっている。
(p143-144 葦津珍彦『日本の君主制神社新報社 昭和41年)

 葦津珍彦は戦後右翼最大の理論家である。引用した文章はその本のなかの「国体問答」という章のなかの「第六問 天皇が存在しなくても、日本はやってゆけるか」という問答の部分の後半である。葦津の答えは「やってゆけない」であり、野原はその答に反対である。しかしその結論を導く思考プロセスに対しては、とても興味と共感を覚えた。そこで割と長く引用してみた。(入手困難本だし)
 日本には不羈奔放たる東洋自由の伝統が脈々と流れているということを、戦国武将や歌人西行を例に挙げ熱烈に論じている。そしてその伝統は近代に入っても絶えることなく続き多くの自由奔放の人材を生んだと論じる。つまり秩序や常識人の目から見て“むつかしい連中”あるいはひどい場合には排除すべき連中と見なされるであろう連中を、“かくのごとき日本の文化伝統”という名において、いわば民族の宝であるかのように持ち上げている。
 戦後日本人は政治的自由を獲得したといわれる。しかしその自由とは一体何だったのか。自由にテレビゲームをし自由にテレビを見自由に消費する以外のいかなる自由をわたしたちは生きているのか。わたしたちは就職という隷属(主体化)を受け入れるかそれにあこがれているかのどちらかでないのか。このように感じるとき、葦津が自分のものであるかのような身近なリアリティで論じる、日本における自由奔放な生の伝統はまぶしいほど輝いて感じられる。これが明治の頭山満の「大人長者」の風格を受け継いだ葦津の思想である。
 日本における自由奔放な生の伝統が、天皇の存在から生まれたものであるならば、たしかに天皇制擁護にも一理あるという気がする。しかしながら現実はどうだろう。法的根拠のない学校現場における日の丸君が代の強制とそれに対する不服従のどちらに、日本における自由奔放な生の伝統があるのか? 現在愛国心かあるいはそれにかわる文言を教育基本法に入れるという訳の分からない策動におどらされている国会議員たちのうち一人でもこの“日本における自由奔放な生の伝統”に思いを致したものがあるだろうか?ありはしないと思う。
「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す」という言葉はうわべだけ美しいが、その内実は権力、強者には一切逆らわない奴隷道徳の強化だけを目指しているように思える。公共や伝統という言葉はそのための道具としてここにあるのだろう。
 日本における自由奔放な生の伝統のなかには、葦津自身指摘するように「むつかしい連中」*1も多い。そうした人があまり増えすぎても困る、と思うだろう。しかし、わたしたちの社会においてはそのような生き方はすでに絶滅してしまっているのだ。そのような現状は困難に感じられる。しかしながら自由は人間の本質であり、わたしたちは21世紀にふさわしい自由のスタイルを戦いの中で獲得していくだろう。日本の伝統にも学びながら。

*1:周囲に迷惑をかける、とは葦津は言わない