松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

飽きててもしかたない。

私は猜疑心が強いだけでなく、たいへんに飽きっぽい人間である。
その私がいちばん飽きているのは・・・
もちろん、おわかりですね。
私自身である。
私のことば、私の思考、私の好悪、私の感覚・・・
そういうものに私は飽き飽きしている。
だから、私が求めるのは「私がこれまでに使ったことのないことば」「私の脳裏にこれまで浮かんだことのない思念」「私がこれまで触れたことのないもの」といった一連の「ないものシリーズ」に集中することになる。
http://blog.tatsuru.com/archives/001631.php
『私家版・ユダヤ文化論』脱稿

 自分に飽きる、とか言っている割に内田はいつも同じことしか言ってないみたいですが。
 自分を挑発するのは〈文化〉さえあれば、さほど困難なことではない。日本の伝統である〈いき(意気)〉の文化なんかもその一つである。