『魔の山』を読んだ
トーマス・マンの『魔の山』を読んだ。暇人でもないのに、かなりの時間を費やしてこのドライブ感のない長大な小説を読みきった。
この小説の主人公ハンス・カストルプはいくじなしである。目の前にとびっきりの美女(彼の主観においてはだが)が彼は何をしようともしない(一度の例外をのぞいて)。でしかし、かれは自己の妄想の力で彼女と「肉の交わり」を成し遂げる。これはまあ興味深くアクテュアルなテーマである。肉といい性行為といい、結局感性的刺激に対する主観的意味付けである。具体的な相手が存在すればそれが距離0.01ミリ的な皮膚的接触であろうが、距離1メートルの社交的接触であろうが本質的に変わりはないと言いうる。私を含めたいわゆる非モテの人は、この真理をまず十分に体験してみるべきだろう。それをせずに無意味なコンプレックスと戯れるのは愚かである。
この小説は何が言いたいのかわからずひどくいらいらした。スタンダールやシャーロック・ホームズのような分かり易い目的追求的近代的小説と、さもなければ、キルケゴール、ドストエフスキー、バタイユ*1のような無神/有神論への志向、私の西欧文化理解の基本はその二種類しかないので、その範疇では理解できないのだ。
解説によると、トーマス・マンとは〈死への親近感から出発して、生への意志を獲得する〉といったテーマを書いた人らしい。
マンがワーグナーの音楽に愛したところのものは、その分解的要素であった。形を、秩序を、君と僕の区別を、個人を分解して、形のない、秩序のない、個別のない「死」の世界へ誘惑するエロチズムであった。同じ理由からマンは海を愛し、眠りを愛し、夜を愛した。彼がショーペンハウエルの哲学を愛したもの同じ理由から*2
ふむ。東アジアに普遍的な老荘的理想に非常に近い。が老荘的理想が、否定(意識作用)の欠如として定義されるのに対して、マンの理想は否定そのものとして定義されている。活動的で生活力がさかんであるだけなく生真面目で理想主義的なドイツの市民というものに対する否定そのものであるからだ。
「単純な青年が、死と病気と無秩序とが支配する世界で陶酔させられ、分解させられていく」*3姿、であるわけです。
わたしたち日本社会が作り上げた、ヴァーチャル、二次元的なネット世界で陶酔させられ、分解させられていく大勢の人たちをどう捉えるか、という問題と非常に近いわけですね。したがってこの本は確かに取っ付き難いけど、現在もっと読まれて良い本だと思う。
平地(市民社会)を代表してハンスの叔父の領事ジェームズが、ハンスを平地に戻そうとしてやってきて「攻撃失敗」する箇所から。
しかし、日曜日の夕食のあとホールで、領事はレーディッシュ夫人が豊満な乳房を持っていることを発見したのであった。夫人は金銀箔をつけた黒い服から肩と胸をあらわにしていて、むっちりとくっつきあった女らしい乳房がそこからのぞき、乳房の分かれ目がかなり下までのぞかれた。この発見は、男ざかりの洗練された領事にはまったく新鮮な前代未聞の発見でもあるかのように魂をゆりうごかし、心を魅了する発見であった。*4
ただのおっぱいの描写である。領事であれば(なくても)乳房くらい平地でもいくらも見聞できる。山の上は人間の常識や倫理観が一時的に無化される場所と想定されているので、常識人である領事であっても、乳房に魅了されて彼女につきまとってしまうことになる。
絶対に私以外は引用しないだろうと思われる場所を引用してみた、と。私たちの文明(この40年位の)においては、マリリン・モンロー的なものに魅惑されることを男性全員に命じている歪んだ社会である、と。19世紀ドイツはそうではなかったと、いうことが分かると思った。
さて、政治思想の対立から西欧思想の根拠の対立まで縦横に行き来しつつ、セテムブリーニとナフタが華麗に論争を繰り広げるのがこの小説の読みどころの一つ。極右イエズス会のナフタのモデルになったのが、20世紀文化左翼の親玉であるゲオルグ・ルカーチであるという、この点に興味を持ったが、netでは適当な情報が発見できなかった。*5
セテムブリーニとナフタの運命は、もうじきなくなるかもしれない憲法9条を考える上でも興味深い。