松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

何の、どのような喩であるのか

 おそらく私のやりたいのは実在としての資料に迫りながら不確定な表現の意味を体系化したり、統計化して何かを論じること以上に、このような試みが、私にとって、あるいは、私をとりまく世界にとって、何の、どのような喩であるのかをとらえることである。この推測すら不確定なのであるが、少くとも、いままで私のおこなっている作業が、不確定な主体による、不確定な表現を、不確定な方法で展開しつつあるということは確定的である。
http://666999.info/matu/data/hukakutei.php#hukakutei

 あまりにも不確定なので読み取りにくい。不確定であることは左翼的観点からは敗北である。
「たえず一定の照明の下に監視されている空間で、自問した。……帆はなぜ美しいか。風を孕んでいるから。」
帆船。風を孕んでいる帆、それは確かに美しい。風を構成している無数の空気の分子が反発しあいながら帆に圧力を掛け帆は抵抗であることにより世界全体を一定方向に動かしていってしまう。このような世界情況の喩としてこれを読むことができる。そのときはやはり世界がどちらの方向に向かっているのかが重要である。いま気づいたが、帆船が「反戦」と同音であることに気づくのは無意味ではない。「たえず一定の照明の下に監視されている空間で」とは不能感を表す。世界が動いていく方向に1ミリも触れ得ないという立場に置かれていることが彼に帆の美しさを観賞的に発見させているのだ。でこれはあまり健康的なことではない。ハイネやブレヒトの苦闘を表現論的にたたえることはこれとそっくり同じ体験だ。実際に苦闘しているのは彼らであり、私はこちら側で分析し観賞しているだけだ。そうではなく、そうではなくハイネの提出したひそやかな美しい比喩は、私をとりまく世界のなかで苦闘しているわたし(あるいはもう一人のわたし)にとっての貴重な武器あるいは花束でありうるはずではないか。そしてさらにそのことはもはやハイネ論という形では提出できないものではないか。不確定の発見とはこのようなものだったか。