松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

金達寿の『玄海灘』を読んで

金達寿の『玄海灘』読んだ。
良い小説だと思う。
古くさい左翼あるいは民族主義的小説として、軽くあしらえるはずだという偏見があった。確かにこの小説は「古くさい左翼あるいは民族主義的」な志を肯定的に描こうとはしている。しかしそれを古くさいとして乗り越えた新しさ、そういう時代に私たちはすでに入っているというのは錯覚だった。現在はそのような新しい時代ではない。現に、来年は韓国においても新しいはずの文在寅後継政権はおそらく負けるだろう。日本に至ってはどこから見ても安物の独裁者安倍・菅が退場しそうにない状況だ。でも時代の新しさというものは、ファッションとかIT化とか表面的なもので決まる、その意味では充分新しいじゃないかといえば、そのとおりだ。
しかし「左翼あるいは民族主義的」思想と人間・文学の関わりという領域においては、80年間新しいものは登場しなかったのではないか。そう思いたくないがそういう気がする。

まあこの小説が批判しにくいのは、「左翼あるいは民族主義的」な志だけあってその具体的展開がほとんどゼロなところにある。金日成はあこがれの名前として、登場するだけで中身はない。活動を続ければ矛盾点がいっぱい出てくる。しかしそれが当然のことであるならば、それを批判したとしても、「左翼を否定できる新しいレベル」に立てたことにはならない。
私は長い間「反スタ」という言葉を大切にしてきた。ソフト・ハード含めたスターリニズムの総体を批判できない人に対して、その思想、実体化してしまっている何かを価値と勘違いし批判できないとしてしまう心性が批判されるべきだと考えてきた。それは正しかったと思う。
ただ、金達寿の場合は、この小説の場合は、組織なり思想なりが実体化するほど育っていない。したがって、その批判は届かない、ということが分かった。