松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

カリカチュアライズしやすい悪にどう向き合うか?

 また、在特会のような「わかりやすい、カリカチュアライズしやすい悪」を「わたしたち」とはまったく別のものであるとして切り離すのは、問題の深刻さを見失うということにもつながります。本文でも書いたことですが、問題は在特会が存在しなければそれで済むというようなものではなく、今回の事件に即して言うならば、そもそも日本政府による民族政策(とは自覚されない、日本人中心主義)に基づいた教育行政が、朝鮮学校を弾圧し日本人民族教育を行う「一般の」学校と差別していることが問題ですし、それはもちろん教育行政だけの話ではありません。在特会切断操作するということは、問題の本質がごく一部の珍奇な集団の行動にあるのではなく、広く日本社会に共有された日本人中心主義にあることを隠蔽してしまいます。
http://d.hatena.ne.jp/macska/20091225/p1

以上のmacskaさんの議論をまとめると次のとおり。

1。在特会は「わかりやすい、カリカチュアライズしやすい悪」である。

2。「日本政府による民族政策(とは自覚されない、日本人中心主義)に基づいた教育行政が、朝鮮学校を弾圧し日本人民族教育を行う「一般の」学校と差別していること」つまり「広く日本社会に共有された日本人中心主義」というより大きな悪がある。

3。1に対する批判は2に対する批判にまで深化させ、批判は遂行されなければならない。

この1、2、3の認識は、font-daさんの有名な記事に列挙されたはてな四天王?の認識*1と同じだ。 macskaさんが反応した集会主催者の認識は違うのかもしれないが。

野原もまた、1及び2の認識に賛成する。「広く日本社会に共有された日本人中心主義というより大きな悪」の存在自体を野原は否定しない。ナショナリズムの克服というシーンで例えば安重根「義挙」をどう評価するかがある。日本の一般社会では伊藤博文の権威は揺るいでおらず、したがってアカデミズムや左翼インテリはそれに対抗すべるため反ナショナリズムをまず前提にして考え始めるしかない、ということである。在特会を含む他の問題にもこれは言えることだ。


ところで、私は、在特会は「わかりやすい、カリカチュアライズしやすい悪」なので、特定の具体的な場面以外では口にすらしない方が良い、と思ってきた。

世間話をすることは悪だと思う。世間話とは世間に通用する常識を基盤にそれを共有する事を喜ぶ行為であり、自己を批判する回路に対して閉ざされているから。(て、、そんなことはないか、そんなことを言うとおよそ「運動」というものは存在しなくなる。運動とは自己肯定を他者に感染させることだから。)*2
そこでこの文章では、在特会批判としてどのような運動〜思想が適当なのかという議論はしないことにする。上記の1を2に帰着させる論理がかならず正しいのかどうか。そこに「本質主義批判」を援用できるのかどうか?、を考えたい。


ところで同種の問題であるだろうところの「カルデロン一家追い出せデモ」について、荻上チキさんは「こうした動きを僕は、先日のシカゴで行われたアジア学会発表では「ポスト社会運動」という言葉を使って説明した。
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20090412/p1」 と、言っておられます。
「ポスト社会運動」についてチキさんは別のご本で説明されているのでしょうが、この記事だけでは詳細が分かりません。別の引用*3から判断すると、身体にネットが浸透してしまった現在の社会に特有の運動ととらえておられるようです。在特会が「ポスト社会運動」であったとして、2の方はむしろ戦前の日本人が持っていた朝鮮、中国人差別が戦後もずっと持続したものと考えられるので、本質が違うはずだということになります。
ただ、私はチキさんの議論にまったくコミットしていないのでこれはここで中止します。


どうも、すっきりした議論ができませんね。私はすでに在特会について何度か書いているのです。復習してみますね。


(1)排外主義批判が現在大事なのか?

結論はやはり無視する、です。まあ、バカに餌をやるなということですよね。
(略)
いま、「排外主義批判」という論点を突く(叫ぶ)ことが、いささかなりともこの日本の情況の核心を突くことになっているのか、疑問だと思っている、ということです。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20091009#p2

それに対して、日本の社会全体が希薄ではあっても排外主義に汚染されていると認識される。
(略)
ただ、無関心を良しとする風潮が、とか日本の社会全体が、とか言ってもいいのか。(略)
“日本人が思想傾向として排外主義化した”あるいは“日本人が戦前からずっと排外主義である”と、言いたければ言えないことはない。ただそれを日本社会の急所であるかのように考える「反日主義」。それは違うのではないか、と思ってきた。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090930#p1

(2)「英霊を冒涜するな!」とはどういう意味か?
8/22には、「「英霊を冒涜するな!」と僕の目に向かって叫んだあの若い女性の表情は一体何を意味しているのだろうか?」というある人の文章を起点に考えている。

「英霊」の本質とはやはり、なんでこんなわけの分からない場所で野垂れ死にしなければならないのか、という悔しさ、怨念ではないのか? 大東亜戦争という巨大な戦いは結果として敗北しただけでなく、戦線のいたるところでエリートの官僚主義の自己保身による矛盾を部下に押しつけそのことによって部下をむごたらしい死に追いやった、そのようなエピソードの集積ではないのか?
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090822#p1

普通、「英霊を冒涜するな!」という命令は右翼のものとされそのような布置において解釈される。しかしそれを一旦受け入れてみよう、だたしわざと文字通りの意味にそれをとって、というのが私の戦略である。太平洋のあるジャングルで敵と交戦する事もなく飢えに苦しみ死んでいったとすれば彼の死は、「国家の為に戦い死んだ」とはかなり違った意味合いの死である。であるにもかかわらず、戦後左翼は皇軍内部の階級闘争を遡って組織することができず、元兵士全体を無視し結果的に靖国に吸い取られるに任せた、といえるのではないか。*4
「英霊を冒涜するな!」を死んでいったその兵士の思い、無念に寄り添おうとするならそれに異論をはさむ必要はない。日本を無意味に高唱するということが、当時も今もその兵士の無念に寄り添おうとするのと反対の行為であることを主張すればいいのだ。


その応用で言うなら、排外主義に対し、それを一旦肯定してみることさえできる。すなわち日本の主権を一番侵害している国、米国に対してだけそれを向けるのだ。在特会を排外主義と呼び、批判したつもりに成るのは実は批判になっていないのではないのか? 彼らの排外主義が無意識のうちに米国をスルーし韓国、中国などに対してだけ向けられているという明らかに奇妙な構図を、共有して疑わない人は、果たして本当の意味の批判者たりえているのだろうか?

☆ ところで、macskaさんはこうも書いています。

ナチスの旗を飾ってある家とか、結構怖い人たちはいますけれど、リベラルな白人たちがそういう一部の過激な人種差別主義者を非難することで、自分たちは反差別主義なのだという安心感を得て、より社会で受け入れられている白人中心主義(および、それによって利益を得ている自分たち)を問わずにいることがうざいです。
http://d.hatena.ne.jp/macska/20091225/p1

これをむりやり次のように読み替えることはできるでしょうか?

リベラルなはてなーたちがそういう一部の過激な人種差別主義者を非難することで、自分たちは反差別主義なのだという安心感を得て、より社会で受け入れられているインテリ中心主義(および、それによって利益を得ている自分たち)を問わずにいることがうざいです。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20091009#p2 で触れた在特会メンバーは低学歴低所得層だろうという推定とも関連しますね。実際排外主義者たちは財界首脳が資本主義者としての思考に基づき、中国政府に友好的になることを批判する。それに対し、いわゆる左翼は「広く日本社会に共有された日本人中心主義というより大きな悪」批判に熱心なあまりに、北朝鮮国家のあからさまな悪や中国の悪の批判に及び腰になってしまう。*5これによって右と左のインテリが、中国の悪の批判をしないという点では完全に共闘するという布置ができあがる。これがいわゆるネトウヨのいう「赤い朝日新聞(アカヒ)」というものだとすれば、左翼的常識でそれを批判することは見当違いということになりますね。
「日本人中心主義というより大きな悪」批判は一体何を獲得できるのか。あからさまな悪を批判することで、自己満足しているだけではないのか?


「「在特会的なるもの」とは、日本社会のことであり、日本のサヨク的運動もそれから無縁ではないですよ。」とするならば、はてサ業界に内在する「在特会的なるもの」はどこにあるのか?

排外主義が持つ極端な不合理性を切り離せば切り離すほど、それは沈殿し、在特会によって引き受けられていく。むしろ必要なのは、我々自身が排外主義を引き受けることである。
http://h.hatena.ne.jp/hokusyu/9236534213747842917

1を2に帰着させる論理が正しい、とすることは、我々自身が排外主義を引き受けることの反対である、ように私には思える。
(以上、id:macskaさんに対する反論ではございません。)

*1:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090930/1254325516でリンクされている、toled,mojimoji,hitujinosanpo,Arisan他の方々の記事のこと

*2:左翼だけを世間だと思っている、(今では死語の)反スタ的常識から抜け出せない野原が異常か。

*3:「i」のマークは、社会に形作られた身体の形であると同時に、環境とともに変容する「主体=i」の意味でもあり、iモードのマークでもあり、インターネットのiでもありhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20090613

*4:農村出身の元兵士の忍従と無念さ(と悪)を、イデオロギーに還元して批判して満足してしまった浅さが、戦後左翼の敗北に結果した。

*5:この間取り上げている、空港の馮正虎問題、劉暁波実刑問題も反響が少ない。