松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

集会は在特会に開かれるべきであったか?

macskaさんの主張の核心に触れていなかった。大事なことである。

排外主義に本当に憤っているのか、それとも単に在特会があまりに排外主義を正直に口にしてしまっている(デリカシーに欠ける)ことに憤っているのか、はっきりしてほしいです。
そしてもし、排外主義に本当に憤っているのであれば、「自分たち」の安全(というより自己満足的な安心感)のために、現実に何の問題も起こしていない人を、異質であるというだけの理由で、国家権力を動員して排除する、という行動を、いったいどう正当化するのか、聞いてみたいです。自分たちのことを「市民」と位置づけ、それ以外の他者を「監視」が必要な「暴力集団」と規定して排除するとき、その「市民=シティズン」という言葉がどれだけ排外主義と結びついているかということに、考えが及ばないものなのでしょうか。
http://macska.org/article/262

彼女に賛成したい。
彼女は「また、わたしは集会主催者たちが警察の警備に頼ったこと自体は批判していない。」と言っている。
警察の警備が必要であったのは、集会の自由のためである。対話が成立する為には、相手を対話相手として認め、また自己と相手の変容可能性、交換可能性を権利として認める必要がある。在特会メンバーは対話の能力のない暴力性だけの存在だ、と。常識的にはそうであっても、厳密には一人の人間存在が対話の能力のない暴力性だけの存在であることはありえない。隊列を組んで具体的な暴力として現れている時にはもちろん対話は不可能だ。しかしどんな暴力的存在も一個の人間存在に戻るのであり対話不可能と決めつけることはできない。

セミナー室に入ったものも2名いましたが、開会前に早期発見、退場していただきました。

全共闘的にはこうしたことはありえない。集会の目的が彼らの悪を明らかにすることであり、幸いにもメンバーが来てくれたのであれば、喜んで彼らを壇上に上げ大衆糾弾集会を行うことになろう。彼が意見を持つ人間としてそこに存在している以上、彼は意見表明の自由を持つし、それに対しそれが正義の観点からして批判されるべきであるとすればその批判は最後まで展開されるべきだ。相手が対話を逸らそうとする自由は認めるわけにはいかない。対話の自由は権威であり正義追求は義務でもあるのだ。
ブルジョア自由法に触れる可能性もある全共闘的スタイルに、その場で切り替えることが容易ではなかったことはおそらく明らかだろう。ただ思想のヴィジョンとして、対話、相手の意見を変えていく可能性を放棄しその問題性に気づかないというのは致命的ではないか。