松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

アレントと人種主義・・・天皇制

去年3月30日には岡野八代先生の公演を聞きにいった。今日は、矢野久美子先生の講演に行こう。

神戸・ユダヤ文化研究会2014年第1回文化講座として、6月7日(土)13:00-17:00、「集中討議 ハンナ・アーレント――ユダヤ論集、映画「ハンナ・アーレント」を中心に」が開かれます。


第1部は講演・矢野久美子
第2部はクロスセッション
(影浦亮平・京都外国語大学国際言語平和研究所嘱託研究員/向井直己・京都大学人間・環境学研究科特定研究員/徳永恂・大阪大学名誉教授/矢野久美子)。
会場は兵庫県私学会館(JR元町駅東口より徒歩2分)。
参加費は、正会員無料、維持会員・一般参加者1000円

 *1


岡野八代『フェミニズム政治学』という分厚い本を本棚を探したが、この本は持っていなかったことに気づいた。*2


フェミニズム政治学・アマゾンの内容紹介から、2点を引く。

近代国家は「自律した個」を理想像とし、子育てや介護などケアする者を政治的に二流の存在とみなしてきた。
男を公的領域、女を私的領域に振り分けるその力学を、フェミニズムは公私二元論として鋭く批判してきた。


「ヴァルネラブルな存在が世界の代表である」(H・アーレント


えーと、「認識と行為の主体を、その認識と行為が働きかける客体から、根源的に切り離すブルジョア的構図。認識し行為するのは学識者・技術者・政治指導者などだ。その対象が自然的、社会的な世界」主客二元論、これをきちんと批判したのがルカーチだった。ということを学んだのでしたが、主客二元論批判と公私二元論批判は名辞が似ているだけで関係ないのか、そうでもなかろう。


ひとは傷つき依存して生きるという事実、を隠蔽し、自律的主体をでっちあげるのが近代である。
おいしんぼ問題における「鼻血」を、権威ある大学教授たちが科学の名において必死で隠蔽しようとした。それは彼らが特殊なのではなく、近代科学の本質の展開である、とも理解できる訳ですよ。


ひとは傷つき依存して生きるという事実の隠蔽、という傾向は、従軍慰安婦問題でも観察できる。未成年を娼婦にすれば、その当事者が傷つくのは誰が考えても当然である。犯罪をとりしまるべき国家がそれに手を下していれば、糾弾されるのが当然。それをなんのかんの言って逃げ回ろうとする。それも橋下が例外的な馬鹿であるわけではなく、近代の本質の展開である、とも理解できる(ということなのだろう)。


ヴァルネラブルな存在はサバルタンとも通じる。で、主体に引き戻すと、〈汚れた主体〉の問題になる。

過酷なシゴキや上下関係があっても軍隊の日々の食事など生活の安定にプラスの価値を見出すことができた貧窮した農村出身者と、軟弱な都会出身者の間では、軍隊観の極端な相違があります。

で口のうまい都会出身者(インテリ)は、軍隊(田舎者)が悪者であって日本を間違った道に導いたといった自分たちに都合の良い俗説を流布し、自分たちの責任(存在論的な)を免れようとする傾向がずっとありました。実際には国家中枢の超エリート(インテリ)とその周辺の準エリート(インテリ。資本家、自由主義者を含む)にこそ、軍と同等あるいはそれ以上の責任があったのは言うまでもありません。*6
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110804#p1

わたしたちの戦後は、敗戦という汚辱をどう位置づけるか、という問から出発した。嫌々ながらであれ自ら加担した以上、「不可能であるところの自己否定」から出発するしかない。しかし、その困難は深すぎるが故に避けられ、自己ではなく代わりに分かりやすい他者、軍隊、兵隊さん、戦犯、といったものをヒステリックに否定することがなされた。
わけもわからず戦地に駆りだされ、餓死の危機をかろうじて逃れ日本に帰還した兵士たちは、進歩的啓蒙的空気において、汚れたものとして扱われ、靖国に行って汚れた同士を見つけ傷をなめあうしかなかった。「戦後民主主義の敗北」の端緒はここだ、と考えることもできる。もちろん歴史の一面でしかないが、現在の問題意識において歴史のイメージが変わるのは当然のことだ。



さて、アレント全体主義の起源2・帝国主義』の第二章を読んだ。
人種っていったい何なんだ分かっていなかったことに気づく。日本は二千年前から、民族=国家=人種であるといった常識はあまりにも深く浸透しており、なかなか自由になれない。

フランス革命は、自らをローマ共和制の後継者であることを誇った。まあ、フランス語はラテン系の言語であるから、ラテン系人種である、とアイデンティファイもできるわけである。正確には「ジャコバン党員はなんらかの種族的類縁関係を強調することは決してなかった」のであるが。*3
フランス革命が打ちたてたのは、あくまで、自由平等博愛という普遍主義である。アレントは強調していないが、極東の島国においては常に強調する必要がある。


ブーランヴィリエという18世紀初めのマイナーな思想家をアレントは取り上げる。はじめての「人種」思想として。
彼はフランス革命(1789年)よりだいぶ前の、貴族が支配階級だった時代の伯爵であるが、彼は革命の予感をいち早く感じた。貴族にとって、昔からの特権が国王によっても認められず、その合法性が市民階級によって否定される時代になってきたのだ。

ブーランヴィリエは全くの新説を提唱し、それによって貴族の権利を法的にではなく歴史的に正当化し同時に説明しようとした。彼の説によると、共通の言語と同一の歴史を持つ本質的に同質な住民からなるフランス国民などというものは存在しない。そうではなくて、肉体的特徴によって区別され得る二つの民族が存在し、一方が支配し命令し、他方が抑圧され服従するという関係によってのみ、この両民族は結合されているにすぎない。*4


フランス革命の自由平等博愛という普遍主義はどういう訳か、近代国家なるものを建設する。それに対する貴族の反動として、ラテン系の市民に対しゲルマン系征服民族であるインターナショナルな貴族のネットワークを顕彰しようとした。このとき生まれた人種概念が奇妙な形で成長していくことになるのだと、アレントは論じている。ふむ。


私達は何をするべきなのか。日本は二千年前から民族=国家=人種であるといった身体に染み込んだ常識の脱構築である。そのためにはたまには、次のように考えてみることも必要である。

共通の言語と同一の歴史を持つ本質的に同質な住民からなる日本国民などというものは存在しない。そうではなくて、肉体的特徴によって区別され得る二つの民族が存在し、一方が支配し命令し、他方が抑圧され服従するという関係によってのみ、この両民族は結合されているにすぎない。朝鮮系の弥生民族と土着の縄文民族である。

福島県民が抑圧され服従しているのは、まさにこの理論によって説明できる。


アレントのこの第二章はブーランヴィリエと、ゴビノーという、反ナショナルな傾向の、二人の保守的な人気のない「人種思想」家を丁寧に取り上げている。


ナショナリズムは人種思想を取り込むことにより、20世紀の悲劇であるナチズムを完成させていく。しかしその意匠としての人種主義つまり、ブーランヴィリエとゴビノー自体の思想がさほど危険であったわけではない。むしろむしろわれわれにとって疑い得ない前提である、ナショナリズム自体に問題があった、(とむしろ、アレントは言いたいのだろう)。準備期の人種思想はあたらしい抗争の火付け役にならなかったし、政治思想の新しいカテゴリーを生み出しもしなかった。

20世紀の政治で、真の人種イデオロギーを知ったわれわれは、18・9世紀の人々の無害な言葉に過大な意味を読み込みがちだが、20世紀の人種イデオロギーはゴビノーやディズレイリにさえまったく未知の政治状況と経験から生まれたのである。これらの半インテリの卑俗で卓抜な思い付きと、19世紀以来のあらゆる面から、特に人種イデオロギーによって政治に持ち込まれた現実の獣(けだもの)的行為との間には、越え難い深淵がある。ここに橋をかけることは、歴史的影響をいかに究明しようと、まして思想史的影響の研究では絶対に不可能である。*5


アレントが言っていることは正しい。


でこれは、日本の文脈に置き換えるとどうなるか。アジア太平洋戦争(「大東亜戦争」)で犯された多くの正視できない虐殺など、それはそれ自身として反省されるべきである。その意匠としての、いわゆる「天皇制思想なるもの」
北畠親房(1293−1354)に淵源するとされたりもする*6)、に敵の本体があるとするいまの左翼の主流の考え方は間違いだということである。(マルクスフォイエルバッハ・テーゼに戻るべきである。)

*1:映画「ハンナ・アーレント」見てないのだがまあいいだろう。アーレント反ユダヤ主義』『アイヒマン論争』 ユダヤ論集[全2巻]http://www.msz.co.jp/topics/07728-07729/ も読んでない・・・

*2:確か、『全体主義の起源2』の第5章を論じていて、アレントの「人権の終焉」という託宣が意外だったことだけ覚えている。

*3:同書p68

*4:p65

*5:同書p102

*6:参照:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20130830#p1