松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「反原発デモにおける日の丸・君が代」問題(3)

7/13と少し前の記事ですが、id:Arisanさんの「旗旗さんの記事について」というのが、関連するようなので、読んでみました。プレカリアートさんより確信的でより私から遠いみたいだ。

今の日本の国家と社会の状況を考えれば、デモの場での「日の丸」の跋扈を許すことには、現在のみならず将来に向かっても、大きな危険がある。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110713/p1

日本社会には「日の丸」という一つの本質がありそれの量が増えることは社会を危機に陥れることだ、とする認識だね。

一方、日の丸を掲げて原発反対のデモや運動を行うことの是非は、「政治的意見の多様性」という程度のこととしか考えられていない。つまり、デモや集会において「日の丸」が翻り愛国的なスピーチが行われるということは、「国民」という枠から多かれ少なかれ外れてしまう少数者にとっては露骨な「排除の暴力」として働くということの重みは、無視されているのである。

意味不明。日の丸の掲示はその人の思想表現の一環であろう。「国民」という枠から多かれ少なかれ外れてしまう少数者に対して露骨な「排除の暴力」を誰かがしていたとしても、「日の丸」がしていたわけではない。「日の丸」あるいは排外主義という一つの本質が幽霊のように大活躍する社会観。

旗旗さんにとっては、差別や排除が行われない社会の実現ということよりも、「言論の自由」が保障される社会の確保ということの方が、ずっと大事なのだと思わざるをえない。

「日の丸」あるいは排外主義という一つの本質を排除すれば、差別や排除が行われない社会の実現がやってくるという、幼稚な社会認識。

今の日本の国家と社会の現実を見ると、明らかにさし迫っているのは、植民地主義や侵略主義、排他的国家主義の支配の再来ということの方であろう。

イデオロイギー的排他的国家主義の支配というのは安部首相の時にもっとも顕著に見られた事であり、彼はとっくに失脚した。つまり敵はイデオロイギー的排他的国家主義ではない。植民地主義や侵略主義、排他的国家主義的な勢力や在日米軍基地の維持拡大を至上とする勢力や、原発村の維持拡大を至上とする勢力や、ホリエモンのごとき素直なリバタリアン的勢力やいろいろな勢力がぬえ的に集まったものである。それは国家独占資本主義だとするある種の左翼思想もある。しかしそれを「植民地主義や侵略主義、排他的国家主義」と名指しうるとする社会観には賛同しかねる。

「反対する会」が本当に旗旗さんの言うような危険な性格を持つ集団だとしても、それによって日本にスターリン主義の国家が誕生したり、そうした勢力が多くの人々に脅威をもたらすと、誰が思うだろう。

スターリニズム大義を認めるなら、日本の隣に「最悪のスターリニズム」国家があり、それを何とかしようとする運動(脱北者を支援する運動を含む)に対して自らが消極的であった事も反省すべき。「反対する会」の勢力が小さいことをもって言い訳にはならない。


「現在の日本における差別や排除の暴力の支配=(その表れとしての「日の丸」の氾濫)」という認識が正しいかどうか? が論点。針谷とか言う人は自分なりに国家と伝統とかを考えて日の丸を選択しただけだろう。


(4)思想の自由を圧殺し無謀な戦争、戦争犯罪に対する主犯は君が代賛美的イデオロギーか?そうではないかのか?
8/6に、上の問いを書き留めたが、id:Arisanさんにおいてはさらにエスカレートし、常識から逸脱している

(4’)現在の日本における差別や排除の暴力の支配に対する主犯は日の丸賛美的イデオロギーか?そうではないかのか?

にイエスと答えるわけだ。

少し感想を言いますと、「核(原発)は嫌だ、恐い、おそろしい」という民衆の即時的な意識を、あまりにも軽視している上に、さらに(6・11主催者への反発のせいもあるんだろうけど)侮蔑さえ感じられます。(旗旗)

それに対して旗旗さんの指摘はするどい。「核(原発)は嫌だ、恐い、おそろしい」という民衆の即時的な*1意識の中には、核についての是非論や現在の経済社会的矛盾や国家や左翼などの入り組んだ歴史などすべてが入り込んだ上で言葉にならずに眠っている。

それは民衆の素朴で正当な要求なのであって、それをすくいあげ、その実現のために共に努力して、信用や権威を勝ち取っていくことが大切だと思います。その上で、「じゃあその願いを実現するためには何が必要か」ということを、民衆と同じ目線で語り合い、説得なり討論していくことが大切ではないでしょうか。(旗旗)

運動の中で主体形成していくとはまさに、こうした現在の矛盾の集積点としての民衆の沈黙といかに取引していく術を学んでいくか、ということでありましょう。運動歴も勉強もしてない私が言うのもなんだが、旗旗さんは素晴らしい。

これはまさにレーニンの「外部注入論」そのものですよ。アナキストからは一番嫌われている論理だと思っていましたが。ただ、レーニン主義組織論にしても、別に「遅れた大衆を目覚めた前衛が導いていく」というようなことではないんですよ。少なくともこの文章ににじみ出ているような、悪しき前衛主義的な発想のほうこそがダメだと思います。(旗旗)

従来の左翼をバカにして勉強しないので、実は従来の左翼の最悪のところを反復してしまう、私もそうなのでよく気をつけないといけない。

集会の場で「日の丸とスピーチ」に反対した人たちは、「日の丸とスピーチ」によって脅かされたり排除される人たちのことを考えて、阻止行動に出たのだろう。それが、彼らの考える「民衆」であり、ぼくもそういう「民衆」のためにこそ行動したいと思う。

ここで言われている「民衆」なんてものは、Arisanさんの頭の中にしか存在しない。

ところが旗旗さんは、「民衆の素朴で正当な要求」とか、「民衆と同じ目線で語り合い、説得なり討論していくこと」の大切さとかいった表現を使う。「民衆」なるものを、旗旗さんとは別のところにある絶対的な真理(錦の御旗)のように持ち出してきて、それ(民衆)を説得させられないからといって、「直接行動」的な手法を独善的だと揶揄するのである。

「民衆」は、ただ旗旗さんとは別のところにある他者であるだけだ。

旗旗さんが語っている「民衆」は、差別的な国や社会の現状に対して無自覚・無批判な人たちの姿であるが、それは旗旗さんによって「こうあって欲しい」と願望された民衆像であり、その願望の枠組みのなかでしか旗旗さんは民衆(他人)というものを考えようとしてないように思えるのである(だから、この「民衆」は同一的で排他的である。)。

Arisanさんが語っている「民衆」は、差別的な国や社会の現状によって抑圧された被害者の姿であるが、それはArisanさんによって「こうあって欲しい」と願望された民衆像であり、その願望の枠組みのなかでしかArisanさんは民衆(他人)というものを考えようとしてないように思えるのである。
旗旗さんの民衆は他者であり、われわれは他者との交渉によって主体を成長させていくというヘーゲル的な図式で捉えることができる。レトリックとしてならここでArisanさんの能力をもってすれば、ヘーゲル的な図式こそがスターリニズムに通じるといった屁理屈をこねて見せることもできるだろう。
しかし一方、Arisanさんが語っている「民衆」はどうか。ただの言葉であり実体がない、「「日の丸」あるいは排外主義という一つの本質が支配している」という幼稚な社会思想が要請する希薄な像にすぎない。

むしろ問題なのは、にも関わらず、それらの国々の人権状況への明示的なコミットと批判の表明が、まるで(左翼にとっての)「踏み絵」のように要請されるということの(国家的な)暴力性である。

要請しているのは、思想的友人としての旗旗氏にすぎない。そこには何の強制力もない。現に野原もかって同様のような問いかけをしたが無視されただけだ。
人権問題をそれとして思考することは確かに、国家が思想に及ぼす力が錯綜し強力である現在困難ではある。しかしそれをしない、「日本人=排外主義」という規定をあえて受け入れることが良心であるとする、マゾヒスティックな不自由からは何も生まれない。
友人からの質問に(国家的な)暴力性を感受するとは、どういう事だろうか。

その暴力の影で密かに易々と免れてしまうのは、過去と現在において朝鮮半島朝鮮人、あるいは中国の命運を何がしか決めてきた(決め続けている)、自分たちのこの国の政治的な実在への自覚だ。

北朝鮮国家や中国国家ではなく「自分たちのこの国の政治的な実在」という何かしら巨大なものが、かの国の民衆の命運にも影響を与えつづけている、と。なんという幽霊史観。

それらが、本当に政治の道具でなく、真の民主主義や反差別のための武器として働いていると言うなら、それらは必ず自ら(われわれ日本人)が加担して行使している差別や政治的・集団的暴力に対しても同時に、あるいはまず真っ先に、矛先を向けているはずだ。

「自ら(われわれ日本人)が加担して行使している差別や政治的・集団的暴力」が、日本社会の主要な矛盾の原因であろうか。
違う。それはイデオロギー還元主義的な社会観に過ぎない。
システムが行っている差別や政治的・集団的暴力には主体がない。「自ら(われわれ日本人)が加担して行使している」という風に簡単に「倫理」を問えないのだ。


私たちの社会の主要矛盾は、雇用の不足と低賃金労働の蔓延だ、それは資本主義という極めてニュートラルな脱出不可能と思われるシステムが原因だと、古典的マルクス主義者は言うだろう。そういう問題を無理に倫理化する必要は無い。
そこに倫理的問題があろうがなかろうが、様々な差別や抑圧と闘っていかなければならないのだ。


自己の心理が倫理的問題を優先しようとするひとは、自分の価値観でそうすればよい。しかし、日本社会を「日の丸」あるいは排外主義という一つの本質が動かしているという社会観は、マルクスの幽霊*2よりもはるかに後退した幼稚なものにすぎない。なぜそんなものに存在の余地があるのか理解に苦しむ。

*1:ヘーゲルの即自的でもよい

*2:共産党宣言、1948年