松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

226事件から小泉・橋下まで

http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/d7294ce037f19e279ce27c94f7622b91#comment-list にコメントしたもの。

プレカリアートさん
気ままなコメントになりますがいくつかコメントしておきます。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110806 の続き)

しかし今回の大阪の場合はどうでしょう。「脱原発」限定どころか、主催者自らが「君が代」を歌い出したというのですから、すわ「ミイラ取りがミイラになってしまったのか?」と訝しがられても仕方がないのでは。

在特会がいつも現れる場所で君が代を少し流した=「君が代+反原発なら受け入れますよ」つまり「君が代+親原発なら受け入れようがないね」というメッセージではないでしょうか。「彼らに丸ごと同化しかねないという懸念」をどうして感じられるのかよくわかりません。

確かに226事件を起こした青年将校の中には、凶作や娘身売りなどの当時の農村の窮状に憤って、クーデターに加わった者もいたでしょう。また、彼らの精神的指導者でもある右翼の北一揮が「国家社会主義」を信奉したのも事実です。しかし、彼らが唱えた窮状の打開策というのは、農村の経済的困窮の原因を徒に国内人口の過剰のみに求め、大陸侵略にそのはけ口を求めるものでした。つまり、あくまでも当時の国策を補強するものでしかなかった。

そうですかねえ。蹶起趣意書によれば、

http://hanran.tripod.com/japan/226.html 
「所謂元老重臣軍閥完了政黨等は此の國体破壞の元兇なり、(略)
 内外眞に重大危急、今にして國体破壞の不義不臣を誅戮して稜威を遮り御維新を沮止し來れる奸賊を芟除するに非ずんば皇謨を一空せん。」

重臣たちへのテロに打開策を求めている。「農村の経済的困窮の原因を徒に国内人口の過剰のみに求め、大陸侵略にそのはけ口を求めるもの」というのは誰の主張によるものなのでしょうか。教えてください。


クーデターを起こした勢力を反体制とは看做さないとは、階級的視点にたたないものはまともな勢力とみなさない左翼史観でしかないと思います。

民衆の立場からすれば「あくまでも当時の寄生地主や財閥と同じ立場に立つもの」で、「所詮は敵でしかない」。つまり「今の在特会と全く同じ」です。

論点は当時「民衆の立場」というものが成立していたと考えるべきなのか、という点です。
「つまり今の在特会と全く同じ」という発言が、すらっと出てくる所はびっくりしました。在特会などただのゴミであり現在社会における「勢力」ではない、と判断します。ネトウヨも数は多少多くともノイジーマイノリティにすぎません。それと多様な体制派を一緒くたにして「敵」を構成してしまうのは、間違った認識です。

しかし、その庶民による「受動的・消極的」支持(許容)こそが、今の右傾化の基盤となっているのではないでしょうか?

物事を「受動的・消極的」に支持(許容)する、というのは庶民の定義のようなものです。それにどういう立場から批判を加えるのでしょうか。それに私たち自身そうした意味で、庶民であることを全面的に拒否できるとも思えません。


「小泉の人気が未だに堅調なのも、」それは、純粋の「受動的・消極的」支持(許容)とは異質です。
小泉は天才で新しい政治的ファッションを作った。橋下も今後そうしていくでしょう。それをファッショとののしることに何か意味があるとは思えません。彼らは言葉を操っているだけなのだから、私たちも本来対抗できるはずなのではないのか?(私はむりでしょうが)