松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「自分は無傷の加害者である」という背理

Arisan氏の新着記事「杉田俊介氏における「敵対性」と「倫理」について」ーー『フェミニズムはだれのもの?』に収められた森岡正博氏と杉田俊介氏の対談「草食系男子と性暴力」を読んでの感想、が評判みたいだ。
これ。http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110102/p1

男としての自分が恋愛や性愛、セクシャリティの面でズタズタに傷ついているにもかかわらず、何も痛みはない、自分は無傷の加害者である、というふうに自分を欺き続けていた。そういう形で社会構造の中に自分を適応させてきた。そのことに気づくのに、とても長い時間がかかったんです。(森岡正博

という文章を、私もtwitterで引用して見ました。「自分は無傷の加害者である」という認識の持つパラドックスといった点に興味を持ったのです。


イノセント、無邪気であるということは当然自己認識としては無罪であることを意味する。しかしよく考えると必ずしもそうではない。無邪気であることは有罪/無罪という問題設定自体を持たないことである。つまり無邪気なものは自己を無罪であるとは主張しない(できない)。よくある南京大虐殺無かった派のごときも、無邪気存在がそのままで存在しつづける権利を求めるというのが根本動機であるような気がするが、実際は自己が無罪であるという形で主張しており出発点から、背理を含んでいると指摘できる。


最初に糾弾がある。「リブが言っていたのは、男が女を支配するなかで、女の側がつねに自分が悪いんだと思わされていく面も当然あって、そこから解放しなきゃいけない。」
私たちの常識は実は大きな不平等を前提にしている。男も女も(差別者も被差別者も)したがってそのうえに立っている。そして、その大きな常識を全面的に対象化できていない限りにおいて、女は差別を内面化し「自分が悪いんだと思わされていく」。そのようでなければ社会的常識は継続していかない。したがって糾弾はさらに強く反復され無ければならない。


さてこのような話のなかで「無傷の加害者」という表現に私は躓いたわけだが。それが差別の話である以上「有傷の被害者」が論点であり、加害者はその話の上では「無傷」である。加害者という言葉が論理的地平に居たのに急に、肉体を持った現実存在として主張し始めることにとまどう、ことになる。しかしそもそも、被害者という言葉が論理的地平(キリスト教的あるいは社会運動的な歴史を背負った)に居たのに*1、急に、肉体を持った現実存在として主張し始めたという、スキャンダルこそが、〈リブ〉であった。したがって、肉体としての加害者は当然存在すべきものであった。しかし肉体としての加害者が常に、権力側の居直り、糾弾に対する反動という平板な論争的地平にしか登場しなかったので、それは取り上げるに値しないものとされつづけた。
糾弾に論理的には同意する男たちは、自分たちの実感を言葉にする途をひそかに探りつづけていた、のかもしれない。「自分は無傷の加害者である」という言葉も模索のなかの一句である。


さて、議論に入っていく前提でぐずぐず言っているわけだが、まあこういう話は相手の言うことをすぐに理解してしまわない方がよいのだ。

男としての自分が恋愛や性愛、セクシャリティの面でズタズタに傷ついているにもかかわらず、何も痛みはない、自分は無傷の加害者である、というふうに自分を欺き続けていた。そういう形で社会構造の中に自分を適応させてきた。そのことに気づくのに、とても長い時間がかかったんです。(森岡

男としての自分というものがどのように成立可能か、は人によってそれぞれだろう。コミュニケーション能力を身につけないと非モテを抜け出せないという問題構成だと、差別問題は前景化しない。
コミュニケーション能力を自然に身につけた上で、女性差別反対意識も身についている人における議論である。

「自分を棚上げにする」とは、傷つけられうる自分の身体性に蓋をしてしまうことであり、蓋をしていることにも無自覚になった、その強固な自己抑圧の構造が、「無自覚な暴力(権力)」というものの根にはある。
これは、以前中島義道氏の『哲学の教科書』を読んだときにも、「死の恐怖」ということに関して思ったことだが、私には、この身体性への抑圧、無自覚さのようなものが強くあり、それがしばしば自他への暴力的な振る舞いとなって現われる、ということがある。(Arisan 同)

 哲学・現代思想系に親和的なひとは概ねそうだろう。抽象的思考にとって自己身体というのは不透明の極致であり、取扱い不可能なものである。
 これは野原自身についても全く当てはまる。よく受け止めていきたい。

自分を「無傷の加害者」と思い込むことで、他者によって傷つけられうる自分の身体性のようなものを否認する。それは「男(である自分)=強者、加害者」という社会の構造やイデオロギーに自分を同化させることで、他者を感受しうるはずの自分の存在の部分を抑圧し、他者とのナマの関わり合いから自分を遠ざけることだ。

この文章はどうなんだろう。「男(である自分)=加害者という社会の構造やイデオロギー」に自分を同化させている人は、決して自己を加害者であるとは認識ないのではないのか。
「男(である自分)=加害者という」認識は、現在の社会の構造やイデオロギーの批判としてしかありえない。したがって、「男(である自分)=強者という社会の構造やイデオロギー」とは反対である。だのに、強者=加害者という等値が書き付けられてしまう。
また、抽象的理屈に還元しないと理解できないから他者の痛みに鈍感であることと、「強くないといけない」という自己イメージに捕らわれているために他者の痛みに鈍感であることも別のことである。


しかしArisan氏は自己にとって最も大切なテーマに回収し展開することで満足しているようだ。
「私が傷つけられてきたその暴力(また他者を傷つけているその暴力)において、傷つけているのは、現実にはどんな力なのか、ということ」という問いがそれである。「この社会全体の差別構造、支配的な権力の存在」がその答えである。
それは間違っていない。
しかしこの論の始め「無傷の加害者」においてそれはすでに確認されていた点ではないのか。

そこで、社会の中での暴力的な関係を論じるとき、個人間の関係だけを重視して、この社会全体の差別構造、支配的な権力の存在を見ないのなら、属性や立場の異なる個人と個人との「対等」な敵対性、相互性のようなものだけが浮かび上がり、それを露呈させてぶつけあっていけば、何か良い結果が生じるかのような結論が出てくる。
(略)

排除すべき対象を恣意的に指定する、この政治的・支配的な権力の存在を外して考えるなら、敵対性は、まったく個人と個人の間にだけ存在するものであり、それを露呈させる(ぶつけ合う)ことこそ、真に望ましい社会の実現への道だ、ということになるのかもしれない。

 一人の男と女がぶつかるという局面では、個人と個人との「対等」な敵対性、相互性のようなもの、において遠慮なくぶつかるのは正しいことだと思える。もちろん、差別(権力構造)の問題はからむ、しかしそれはまあ「ぶつかるという関係」の中にそれをどう引き入れるかという、絶えざる争いにおいてしか解決できない問題である。
差別イデオロギーに囚われている自己の否定という倫理は、圧倒的な他者との全面的な葛藤というものにはごく一部にしか役立たない。 それにこだわりつづけるのは問題を、自己(倫理)に収束させようとする暴力になるのではないか。


もちろん「この社会全体の差別構造、支配的な権力の存在」との闘いを重要視することは大切である。闘いを全存在化していくべきという思想による生き方もありうるかもしれない。しかしArisan氏の思想はそれともちょっと違う。


Arisan氏の文章を読んだだけで、森岡正博氏と杉田俊介氏の対談は読んでいないので不十分なものですが、感想まで。

*1:従って形式的には主体であるが実際には客体であって主体ではなかった、こと。