松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

誰が自己の無知を語り得るのか?

(A)わたしは、パンデミックを知らない。*1

この文章は成立できるのか。知らないのならどこから、パンデミックという名前がやってきたのか。名前というものはいつでも意味をもたないとして、パンデミックという名前はどのような文脈においてわたしから発語されたのか?
人の認識範囲というものをひとつの広大な円(n次元の)であると考えてみよう。とすれば、パンデミックは、その円の外にあるか内にあるかのどちらかだ。外であるならそもそも、「パンデミック」という対象自体が私にとって存在していないわけで、「わたしは、パンデミックのことを知らない。」という文章自体が成立不可能だ。内にあるなら、(A)は端的に虚偽である。

(B)(ウガンダブルンジなんてどこにあるか知らないや。)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090425#p2

ところで、この文章がヒューマニズムに反することは明白であるだろう。
ウガンダジンバブエ/チャド/ブルンジ/ナイジェリア/シエラレオネといった名辞の列挙が、大虐殺あるいはそれと同等の不正を暗示しているものであるならば*2、それを無視して通り過ぎることはわたしが人としてその良心にそむくことであるだろう。*3


さて、PledgeCrewさんから質問をいただいた。0425のアフリカの国名を列挙した記事に関してである。

「一番大きな不正義である」というのは「ガザ問題の方が重い」ということとどう違うの。
http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090429

あなたはどういう権利でそんなことが言えるの。それは第三者による「序列化」ではないの

上の註で引用したArisanさん文章を次のように適用してみる。
ウガンダで死んでいく一人の男性がいて(あなたと同じこの世界に)自分が生きている以上は、(あなたをみすみす死においやるようなそんな)社会を良い方に変えていく責任が、ぼくには生じます。
PledgeCrewさんはそういう立場に立って考えておられるのかな。

いずれにしろ、ガザの問題にしてもダルフールの問題にしても、われわれは現地の具体的な情報も不足し、また具体的な影響力などほとんど行使し得ない第三者たるをえないわけだ。

ガザの問題についてわたしは「情報が不足し影響力を行使し得ない」立場に置かれているとは考えない。

 事態は、イスラエルハマスの 「交戦」 でも 「軍事衝突」でもない。パレスチナ側にできることは、近代兵器で武装した圧倒的なイスラエル軍に対する、ほんのわずかな抵抗でしかない。であれば、「停戦」を実現すべき主たる責任は、言うまでもなくイスラエルのほうにあるだろう。そもそも、問題の発端は、住民の意思によって選出されたハマス主導の政府の正当性を一方的に否認し、経済封鎖によって彼らを追い詰めたイスラエルの行動にある。
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200901130000/

これは今年01.14に、PledgeCrewさんの書かれた文章ですね。わたしはこの認識に全面的に賛成です。そして「わたしたちの政府」もこのような認識を持ちイスラエルに働きかけるべきであったでしょう。であればガザ問題についてわたしたちには情報が不足していたわけではないし、「影響力を行使し得ない」と言いうる立場にもなかったのはあきらかです。
一方、ダルフール、あるいはそれよりさらに遠く話題にならない問題*4に関して、わたしには情報が不足し、問題の輪郭すらおぼろげのままである。

世界には様々な問題が存在する。それはいまさら言うまでもないことだ。
だが、その様々な問題の中から、ガザ問題を「世界で一番大きな不正義」として押し出すとき、あなたの「恣意」以外に、あなたの非難にはいったいいかなる根拠があるのかということだ。

チェチェンでは長い間に渡ってあまりにも多くの人びとが殺されているのではないか。にもかかわらず私はチェチェンではなく、「ガザ問題が「世界で一番大きな不正義」である」と考えるべきだと思う。すべての人が、ではない。
わたしは、虐殺や悲惨そのものではなくそれをとらえる認識枠組の歪みを問題にしたいと考えている。イスラエルパレスチナ問題を解決できなくさせているのは、日本国家を含む先進諸国の認識枠組の歪みである。日本国家を含む先進諸国の良心的部分にとって、自己の責任を否定できないもっとも身近に突きつけられた「大きな不正義」として、ガザ問題は存在する。パレスチナ問題にすでに大きな日本の税金が投入されている以上、ガザ問題をどう理解するか説明することは、日本国家の責任を分有する個人(私)にとって義務である。

ダルフール問題についてもおなじくらいはっきりした態度変更すべき理由が日本国家に存在するなら教えていただきたい。しかしPledgeCrewさんはダルフール問題について「情報が不足し影響力を行使し得ない」立場だと自己規定する。


世界には様々な問題が存在する。その様々な問題の中から、ある問題を押し出すとき、それを自己の「恣意」であると、あなたは語るのか? 正義に訴えるとは、自己の恣意をこえた、自他をともに拘束すると考えられた審級に訴えることであろうに。


さて、冒頭の二つの問題に戻る。
(A)のパラドックスを解くためには、「パンデミックは、その円の外にあるか内にあるかのどちらかだ。」という命題を否定する必要がある。人の認識範囲というものをひとつの広大な円(n次元の)であると考えた場合の内と外との境界は、一本の線ではなく、実はかなり大きくてあいまいな領域である、とするしかない。
ウガンダブルンジなんてどこにあるか知らないや。)という文章を厳しく批判するとき、人はウガンダの悲惨者の立場に立っているのか。そうではなかろう。
主体はあいまいで汚れと悪に満ちたものであることがアプリオリにできない。そうであるところの主体の立場からは、(ウガンダを知らない)という言表は不可能なものになる。
主体はあいまいで汚れと悪に満ちたものであるが、そうであればこそ自己を裏切り「歪んだ告発」を自己の口から発することができる。そのことを権利という言葉で説明すべきではない。

*1:むしろ「パンデミック」という言葉の意味を知らないと想定して、以下読んでください。

*2:それは正確な理解ではない、これは真実委員会のリストであり悲惨のリストではない

*3:「だからこそ、(あなたと同じこの世界に)自分が生きている以上は、社会を良い方に変えていく責任が、ぼくには生じます。ぼくが生きている限り、この有責性は解除されないのですが、同じ有責性を、全ての人が(それぞれの位置に応じて)他者に対して負っていることも事実です。http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090403/p1」という「責任」をどう考えていくか

*4:例えばビルマの辺境州の問題