松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

沈黙の核あるいは〈関係の絶対性〜大衆の原像〉

友人NT氏が送ってくれたパンフの文章の一部を紹介する。私は17歳の時から自称吉本主義者であったが、〈大衆の原像〉という言葉はよくわからず現在まで来た。
その言葉の魅力(魔力)の一側面を見事に伝えているので、書き写してみた。

沈黙の核あるいは〈関係の絶対性〜大衆の原像〉



 ある事柄の渦中において、自分の認識が行き詰まるときにはいつも表題の言葉との出会いを受け止めなおしたいと感じている。

 ほとんどの時間は黙って生活の瑣事に没頭しているが、ある関係的な場面で思索や発言や行動を強いられる時、自分の選んでいる特定の立場がいかに必然的に感じられるとしても、その認識の位置をいったん問題の源泉からの偏差として捉えて見ることは不可欠である。言葉にならないで沈み込んでいる心のうねりのような状態に対して、自分の表現を開いて行こうとする試みは、様々な条件にしばられた特定の場面を、より本質的な場面に変換して行く条件であろう。


 「プロレタリアート」といった外来の階級概念には、既に硬直的な印象しか持ち得なかった私(たち)にとって、〈大衆の原像〉という言葉は不思議な解放感をともなって交差していた。明確な実体概念ではない一種の詩的イメージであることにも関連していたし、資本主義の成熟にともない、能力を含む条件の差は歴然としているけれども、体制の枠内で個人の順応的な努力が時を得れば、貧困や差別の固定的な抑圧から脱することも可能となりえている社会への、漠然とした感受性も包括していた。

 また、明確な目的意識や事実認識に貫かれているように見える人々の狭間であいまいに浮遊する自分が、なお矛盾を感知し、この世界のシステムと衝突せざるを得ない有り様と事柄を考えるさいに、欠くことのできない重量感を伴っていた。

 時代は様々な矛盾を増幅しながら、大多数の生活基盤を全体的に底上げする方向を明示しており、20世紀初期段階から既に少数の思想家たちによって警告されていたように、古い階級闘争の理念は、そのままでは、国家的矛盾の上に、さらに別のくびきを上乗せする桎梏の役割しか持ち得ないことを世界規模の事例が写していた。

 〈大衆の原像〉の情況的な発生根拠は〈前衛〉〈党派〉〈知識人〉といった往時の社会階層性に対応する基本概念であった。と同時に、誰もが内包する知性の根拠にとって直感的な了解権を持ったのである。

 〈反〉体制運動の本質領域において、1960年前後の安保闘争が〈戦後民主主義〉〈前衛〉〈党派〉といった概念に引き寄せられる知的階層性の「擬制の終焉」過程であるなら、その過程を折り畳むようにやってきた1970年前後の〈大学〉闘争は、〈知識人〉概念を貫いて、さらに言葉に関わる者の全存在様式に及ぶ「擬制の終焉」であったと言うことができる。知性の根底的反省を含んだ〈69年性〉の問いは、世界同時発生という意味からも人類史における幻想性構造の変動を告げていた。闘争の一過性及び部分性を強調する社会的風潮は、根源に直面すれば人間を主体とする文明の方向性自体が迷宮に突入しかねないという秩序の恐怖感に根ざしている。

 大衆的反乱の大波が過ぎた後、勤め人や起業家や研究者や〜として「大清掃」スタイルから市民社会の服装にまぎれて行くさい、〈大衆の原像〉は内外から強いられる理不尽な屈折や倫理的なこだわりを解体する一種の〈やさしさ〉を響かせていた。「等身大の己に向かって歩いて行くことが、情況の核心に向かうことでもあるよ」という〈歌〉として。各々の軌跡が背負った屈辱と責任を問い続ける複合的な声としても…。しか、ある言葉が了解圏を広げる時は情況との切迫した関係が失われて行く時でもある。


 国家を頂点とする秩序の構造に対し異議申立に立ち上がった層が社会の諸領域で中核を占めるようになると、時代は思想的にも飽和点に達した。ある者は、秩序を批判した方法を管理する側から下層の関係に逆転的に利用するようになり、ある者は、他者が避けようもなく持続している闘争に交差すると、思想家の成果を「〈大学〉闘争後責任」の問いに対する防壁とするようにもなった。


(後略) *1

 
 私はすぐれた文章だと思うのだが、分かり難いと感じる方も多いだろう。

 〈大衆の原像〉や〈関係の絶対性〉は、おまじない言葉として批判された。概念規定がはっきりせず、各人が自分の思い込みだけを込めて使用するので、他者から見ると訳がわからない、と。
 NTはそれはそうしたものだったと認めた上で、そのような言葉を、いやむしろそのような言葉とともに生きた生のあり方を肯定していく。
 どんな生も、いくつかの(厳密な概念規定ができない)言葉とともにしか営まれない。*2
全共闘後の社会では、口に出される事はなくとも「ライフプラン」という人生ゲーム〜生命保険的発想が支配的である。大学進学は投資とみなされ、「よい大学に行く」ことによりより大きな生涯賃金が得られるという前提の上でこの社会は成立しているとされる。すると例えば東京電力に就職すると何があっても自分たちの既得権益を守ること以外の常識は存在し得なくなる。

 一方、50年代、60年代に勢いがあった「左翼」は、なんらかの偶像を崇拝することにより自己の正義を肯定することを一番大事にしていたようにも思える。まあ労働運動をすれば成果を勝ち取ることができた時代である限りにおいては、偶像にたよる必要もなかったわけであるが。


 私たちの社会が不可避的に孕んだ1960年前後の安保闘争という大きな闘争があった。それを闘争と呼び、不可避的と考え、「必然ではなかったのに敗北した」と考えること自体が今では、左翼と呼ばれ、少数派に追いやられる事になるのであろう。〈戦後民主主義〉〈前衛〉〈党派〉といった概念はその過程で大きく問われ厳しい批判にさらされることとなった。批判を研ぎすまし〈革命〉を求心的に追求した人々はいくつかの新左翼セクトを作っていった。一方〈横超〉した人たちが発見したのは〈大衆の原像〉である。

 大衆とは知識人の反対語である。物事に対してそれを思考の対象とする作業を自己の本来性と考える存在様式が知識人である。生きるのではなく、いくつかの生き方を比較検討、思考の対象とする「生き方」。それは真の生き方ではない!と鋭く反発したのが、全共闘派学生であった。
でその反発に根拠に与えるものとして、〈大衆の原像〉という言葉があった。

 311以後、ものを考える事とものを考えさせられることの差異を私たちは知り始めている。原発爆発以後をどう考えるのか? 「原発なしでやっていけるのか?」と彼らは問い、その問いが規定する地平で賛否の議論が、あるいはデモや社会政策が行われる。それは作られた偽りの地平にすぎない。*3

 わたしたちは言葉によってしか考えられない。それは権力(マスコミ)によって与えられた言葉(ジャルゴン)、定型的フレーズによって考えることとほとんど同義である。しかし、小学校も出ず新聞など読まずに生きていた私たちの曾祖父母たちが愚かだったかといえば決してそんなことはない。愚かな人もいただろうが賢い人々もいた。さほど賢くない私はさほど賢くないことにおいて、彼らの知のようなあり方にたどり付けるのではないか。〈大衆の原像〉とはそうしたヴィジョンであっただろう。

 自己の肉体を手放さず、自己の整合性のために都合の悪い部分に目をつぶる事をせず、権力への不従順を恐れない、知のあり方である。


 私の解説は、NT氏の思想をかえって歪めるものかもしれない。
 とにかく、〈大衆の原像〉を、自分の生活保守思想の肯定と読み替えて、それを言葉巧みに展開する言説ばかりがあふれており、吉本隆明氏自身の一部の言説すらそれを補完するものになってしまっている現在、NT氏の文章はとても貴重であると考えたのでここに紹介する。


 ご意見、ご批判などいただければ幸いである。(野原燐)*4

*1:p2〜3 〈 〉闘争の原像・3 第一分冊 より

*2:いやそうなのか。そのような言葉による生でない〈生のあり方〉を指示しようとする言葉が「大衆の原像」なのではなかったのか。

*3:「安全でも安価でもない原発」を嘘をついて推進し続けたことの責任追求が第一の課題である。

*4:もちろん、この掲載は、昨日の吉本隆明死去にともない、〈大衆の原像〉などにアクセスが増えるだろうことを当て込んでのUPでもある。