松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

概念(序文の位相で)


概念(序文の位相で)

 一般的な辞書などでは、概念について、同種の多くの事物に共通する本質を、経験ないし思考を媒介して言語によって抽出したもの、というように説明している。
 この概念集を作成する契機をふりかえってみると、同時代建築研究会(東京)の企画である『ワード・マップ 現代建築』に、ある必然から関わることになり〈バリケード〉、〈法廷〉、〈監獄〉という三項目の統一的な不可避性を提起しつつ執筆を担当する作業の中で、建築概念に対して門外者として(あるいは、門外者であるからこそ)内在的批評をなしうる手応えを獲得しえたが、同時に、常に物質性との拮抗において概念をとらえようとする人々に比して、私の二十年の試みの抽象性〜偏差を深く自覚した。
 前記の企画との同時代性を帯びて、批評集(さらに、表現集や発言集の〈 〉版や、それぞれの続編)の刊行や討論集会の企画が、二十年の対象化作業の基軸として進行していたことと相乗されて、前記の執筆は、これまで私が具体的な切迫との関連において発言したものの記録、マスプリして配布した文書、刊行してきた通信などを、他者性の総体から把握しなおす視点を与えてくれたのである。
 一つの仮定をしてみよう。これまでの〈松下昇〉の全表現を大学闘争(全く良くない言葉であり、表記や理解の仕方を変換しなければならないが、過渡的に用いる)に関する事典として、あるいは概念の索引として読むことは可能か。それは、まず不可能であろうし、説明的な位置の対極で表現してきたのだから当然かも知れない。ただし〈松下 昇〉の全表現の中に、大学闘争というよりは〈 〉闘争過程ないし、それを不可避とする情況に現れた基本的な概念が全て含まれていると仮定してもよいのではないか。いや、あえて仮定すぺきではないか。なぜなら私たちのくぐってきた〈 〉闘争過程と、はるかな異時・空間に生起しうる〈 〉闘争過程に共通する本質を、経験ないし思考を媒介して言葉によって抽出することは可能であり、必要でもあることを、前記の二つの企画に私を参加させてきた経過の根底に潜むカが示していると確信したからである。
 このような確信に支えられて、〈 〉闘争過程を思い描く時に訪れる概念の言語化を、まず〈フィクション〉の項目から開始してみた。建築に関連する前記の三つの概念の物質性〜具体性から最も遠い(それゆえ最も近いかも知れない)概念として。その後いくつかの項目を作成しつつ、あらためて痛感したのは、たんに概念の解説ではなく、ある概念の生成してくる根拠や回路を共有する度合で了解しうる言葉で表現しなければならないし、しかも、はるかな異時・空間にいる、全く予備知識のない〈私〉が了解しうる言葉で表現しなければならないという困難である。しかし、順不同のまま、あふれかえり律動する概念の集合を少しずつ文字に変換していく作業は、〈69〉年前夜のエロス領域の感覚と、どこかで共通していることも記しておきたい。(英語でconceptionが「概念」の他に「受胎」を意味することの意味)

 ところで、概念とは、こちらが把握したい時に把握できるのではなく、ある瞬間、否応なしに、こちらを把握してくる本質をもつのではないだろうか。ドイツ語では、概念に相当する言葉はBegriffであるが、これは、Begreifen(つかむ)から派生しており、ある示唆を与えてくれる。ハイネも「私は自由の奴隷である」という口ベスピエールの告白を引用しなから、「理想が我々をつかむ」時の抗らいがたい力について語っていた。(表現集152ぺージ参照)
 前記の〈理想〉は、〈概念〉とは異なる概念であるが、双方を共通に動かすカ学が感じられる。このカ学をこそ追求しつつ、この概念集の作業をおこなっていきたい。
 従って、〈概念〉という概念を〈 〉化して応用する場合、観念や想念や情念というような心的なレベルの動きと、それとは無関係に動くようにみえる他者総体の存在様式を同時にとらえていかなければならないだろう。
 それと共に、概念集の作業に際して、今は微かな予感としてしかいえないが、
α、概念集の項目を、これまでの〈 〉闘争過程の表現を全て再検討しつつ抽出するだけでなく、全表現の偏差を対象化しうるものを選び、未出現の項目へ応用する。
β、既出現〜未出現の項目は、名詞とは限らず、全品詞にわたり、さらに文体〜構成〜ジャンル、この概念集に交差する現在〜未来の幻想性総体を対象とする。
γ、ある項目を、まず提示して記述し始めるだけでなく、なにものかに促されて記述していく時に向こうから現れてくる像や音や〜に気をつけ、それを作業の基軸とする。
というような項目にカ点を置くことになるのは必然である。

(p1-2『概念集・1』松下昇 1989・1)