松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

アゴーンから自己否定(自己の存在様式の交換)へ

 今日のアゴーン主義者たちは、アレントニーチェアゴーン主義的理想を政治に適用したことに拍手喝采を送っている。しかし彼らは、ジェンダー、人種、階級に基づく具体性を考慮したうえで自己を議論に持ち込むべきだと主張する。もしそれを怠るならば、純粋政治学という実体もなく関連性もない貴族趣味的な幻想に浸ることになる、と。もしもアレントが政治にニーチェを適用する道を示しているとすれば、その適用を完結するためには、アレントをさらに「ニーチェ化」するしかない、すなわち「境界のない」政治的な行動には、境界をぼやかす力がそなわることを強調するしかない、そのときにのみ、正義をめぐる今日の闘争がアゴーン主義的政治学において当然の評価を受けることになるだろう、と。
p197 ヴィラ『政治・哲学・恐怖』isbn:458800798X

えーと、(何も知らないのですが)「公的」=政治的領域を〈自由〉の領域として再定義したのが、アレントです。
そこから翻って、政治的領域が〈自由〉の領域でなければならないとすれば、討論(闘技=アゴーン)はどのようなものでなければならないのか、考えたのがアゴーン主義者(コノリーなど)だ。と。
チラシの裏ですいません。
追加:アゴーン とコノリー

コノリー*1が問題にするのは、リベラルも共同体論もその中に他者性の混在を認めようとしていないことである。人は他者の異質性により自己のアイデンティティが脅かされることを恐れており、他者を周縁化したり締め出したりして、アイデンティティを固定化してしまう。しかし大切なのは、アイデンティティを固定化することではなく、敵ともいえる他者を認め、そこに敬意さえ持つことであり、それにより人はアイデンティティの偶然性を知ることができるのである。そのためには正義も善もアイデンティティも政治化されなくてはならない。その上で混在する異質な他者同士が常に「闘争(アゴーン)」を繰り返さなくてはならないというのが彼の主張である。「闘争」というのはH.アーレントが復活させた概念で、正々堂々と争われる競技(ゲーム)をイメージさせる用語である。コノリーは公的空間に他者性が現われるために闘争的な民主主義が成長し、花開くことを望んでいるのである。(Connolly:1991)。
http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~shio/ronshu/andou.htm 安藤論文

追記2:B.ホーニッグ

そうした立場に立つならば、「アーレント自身の政治的行為を遂行的言語行為という観点から理解することによって、アーレントの見解をその根本において再読 (ラディカライゼイション)すること」が可能となり、「わたしたちは、身体を脱−本質化、脱−自然化し、あるいは、それを多元化して、さらには、アーレント的な意味での行為遂行的(パフォーマティヴ)な産物、つまり、行為を可能とする場として身体を見るようにならざるを得ない」し、そうであるならば、「アゴニスティックでパフォーマティヴな政治の力は、「女性」というすでに知られた、統一を要求するようなアイデンティティではなく、アゴニスティックで差異に満ちた、多面的で未だ同定されていない存在を前提にしている。そして、その存在は、つねに生成しつつあり、つねに、新たな補足と修正を呼び求めているフェミニズムの原動力になり得る」のである[Honig 1995=2001:20-21]。
http://www.josukeamada.com/bk/bpp17.htm 自己と自由

*1:ウィリアム・E・コノリー