松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「同情」への警戒

どちらにしても、このとき、問題になってくるのは「他者へのアテンションというときしばしば連想されがちな同情・共感の姿勢」であるのだが、この「憐れみ pity」あるいは「同情 compassion」を、アーレントは「政治的には危険なものとみなす」のである。
アーレントは「ロベスピエールらの革命の指導者に典型的に見られる態度、つまり『人民』なるものを実体化」する態度であり、要するに、それが如何に「連帯 solidarity」における崇高で「自然」な他者への哀れみ compassion であれ、それは「ひとりひとりの自らによる現れを奪う点で」アーレントとは相容れないものである(ニーチェと対比するのも面白い)。
http://tesso.exblog.jp/1057504 齋藤純一「表象の政治/現れの政治」

 アレントがどういう考えで同情に警戒感を抱いたのか、まだよく分からない。が、わたしも同情には警戒的である。同情する人は、同情する権利を持っている自己を疑っていない、というかそのような反問がやってくる可能性をそもそも考えていないところがある。まあ実際に元慰安婦のところとかホームレスのところとかに出かけていけば、相手と向き合う(あるいは向き合えない)という体験ができるので、ここでいう「反問」は果たされる。しかしカンパとか署名が要請される場合は、あなたはタダで(何も支払うことなく)カンパとか署名できますよ、といった暗黙の前提が、そこにあるように思う。*1実際にはそういうことはないのであって、たった千円であっても、カンパするのはそれは野原の行為であって関係を野原の責任において成立させたことは間違いないのだ。
 結局、アレントの〈政治〉は〈わたし〉をその一項として不可欠なものとみなすのに対し、そうではない政治があるということだ。国家のいう政治は投票であり、1票にはほとんど価値がない。署名やデモでも一人ではほとんど価値がない。同情の政治は、一定の大衆を容易に動員できる場合もあるが、アレントの〈政治〉領域と関係ない。

*1:カンパするためにさらに入会金が必要なら誰もカンパしてくれないから、タダで出来て当たり前、ですが