松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

語ること(倫理)と責任の 二律背反

言語の効果ないし使命は、私から単独性を奪うこと、単独性から私を開放することだ、とデリダは述べる。 「私の絶対的な単独性を言葉で中断することによって、私は同時に自分の自由と責任を放棄する。語り始めてしまったとたん、私はもはやけっして私自身ではなく、一人でも唯一でもなくなってしまう。奇妙で逆説的で、おそろしくさえある契約だ。」*1
私のものであり、単独のものであり、また誰も私の代わりにすることができない行為が私の行為である。そこには秘密が前提とされている。


しかし一方で、
他者たちの前で自分の身ぶりと言葉を説明し、正当化し、引き受けること(そうしなければならないこと)と、責任は結びついている。哲学的に考えても常識的に考えても。
倫理的要請は普遍性に従う(キルケゴールによれば)。普遍性の媒体に入り込んで、自分を正当化したり、自分の決断を釈明したり、自己の行為を自ら保証したりするという責任を定めることが、語ることだ。


ここには躓き(つまずき、スキャンダル)、絶対的な逆説がある。
語り、答え、釈明するように仕向けることは、供犠を前にしたアブラハムにとっては、私の単独性を概念という媒体(エレメント)において解体してしまうことであり、責任ではなくかえって無責任を意味する。


結局のところ、倫理的なものとは惑わしでしかない。アブラハムはそれに抵抗しなければならない。倫理的な惑わしは、責任や自己正当化をうながすという口実の下に、彼を破滅させ、彼の単独性も、彼の究極の責任、すなわち神の前の正当化不可能で秘密で絶対的な責任をも失わせてしまう、から。
絶対的責任(神との関係)は、絶対的に、そして何にもまして例外的なもの、あるいは常軌を逸したものでなければならない。それはほとんど、概念化不可能なもの、思考不可能なものである。


以上、デリダキルケゴールを引用して語っていることの要約。
(赤子に死を与える の参考として)

*1:p126 デリダ「死を与える」isbn:4480088822