松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

任意の他者は絶対的他者である?

さて、わたしたちはいわゆるしがらみの中で生きているわけですが。責任。日常における責任のもっともありふれた経験に、「イサク奉献」は新しい光を当てる。
責任は私を他者に(他者としての他者に)束縛する。他者としての他者とは自己の価値観では推し量れない他者といった意味だろう。他者としての他者を発見することは、絶対的な単独者としての私を発見することだ。


神とは唯一のもの。絶対他者、名を知ることはできず、呼ぶこともできないそれ。それにつけられた仮の名が神である。
神に対する責務、絶対他者(神)に対する私の単独性。私は他者に対して責任を持つ、そして他者に応答する。

しかし当然のことながら、単独者としての私を他者の絶対的な単独性に対して束縛するものが、すぐさま絶対的犠牲の空間や絶対的犠牲の危険へと私を投げ入れる。無限の数の他者たちがおり、他者たちの無数の普遍性がある。同じ責任が、一般的で普遍的な責任(キルケゴールが「倫理的次元」と呼ぶもの)が他者たちに私を束縛する。 私が他者の呼びかけや要求や責務さらには愛に応えるためには他(ほか)の他者を、他の他者たちを犠牲にしなければならない。すべての他者は全き他者である。*1(p142 「死を与える」)

単独者の強調から、突然「無数の他者」が出てくる、ように読める。
絶対他者(神)vs.私の単独性という構図において、(世俗化という歴史の流れにおいて)前者が希薄化すれば私の単独性が強調されざるをえない。そのとき絶対他者ではないただの他者がそれ自身で絶対化するという傾向が生じる。
〈責任〉と倫理は二律背反する。つまりAに応えようとするとき、別の他者Bは犠牲にされなければならない。Aとの関係は絶対的というニュアンスを持っている、即ちそれはBが惜しげもなく犠牲にされることを含意する。
すべての(任意の)他者は絶対的他者である、だろう。

他性や単独性の概念は、責任や決断や義務の概念を、逆説と躓き(スキャンダル)とアポリアへと、アプリオリに運命づけているのだ。逆説、躓き、アポリアとはそれ自体が犠牲にほかならない。概念的な思考をその限界まで、すなわちその死や有限性にまでさらし尽くすものだからだ。他者との関係、他者の視線や要求や愛や命令や求めとの関係に入ってしまうと、私は次のことを知る。倫理を犠牲にすることなく、すなわちすべての他者に対しても同じやり方で、同じ瞬間に応えるという責務を与えるものを犠牲にすることなく、それらに応えることができないことを。(同上)

 責任や義務というのは市民社会の常識であり、あなたというものが私と同じく理性的市民であることを前提しまた保証する。しかしそれはどろどろした人間関係をむりやりアトミズム的にキレイな合理的なものと仮定したフィクションにすぎない。キルケゴールの神学的思考が開いた躓き(スキャンダル)の思考をもって世の中を見ると、ありふれた世界は別の情景を見せる。
単独者としてAに応えようとするから、別の他者Bは犠牲にされる。この場合、〈責任〉と倫理の二律背反において、前者が選択され後者(ヘーゲル的社会構成道徳)がないがしろにされるという構図は維持されているだろうか。

私は死を与え、誓いに背く。そのために私はモリヤ山頂で息子に刀を振り上げる必要はない。夜も昼も、あらゆる瞬間に、世界のすべてのモリヤ山で私はそうしつつある。私が愛する者に、愛すべき者に、他者に、およそ共通の尺度のないような次元で私が絶対的な忠誠を負っているようなあるひとりの他者に対して、私は刀を振り上げつつあるのだ。(同上)

わたし他ならぬこの私は「刀を振り上げつつある」のだろうか。誰に対して、か。 私がTV画像のなかで撃たれるパレスチナの少年を見たとすれば、彼が私に刀を振り上げているのでない以上、私が彼に刀を振り上げていると考えるほうが自然だろう。


でもなんか話がそらされた感じがする。
イサクの話は、絶対者である神と愛しい我が子との矛盾である。Aに応えるために別の他者Bを犠牲にするという一般論とは違う。

自分の仕事、教師としての哲学の活動を選ぶことによって、私はおそらく義務を果たしているのだろう。だが他のすべての責務をおのおのの瞬間に裏切り、犠牲にしている。p143

自分の仕事を自分が果たすという自明性を私たちはすでに喪失している。例えば(仕事でないが)私はなぜデリダなんて遠い国の訳の分からない本を熱心に読んでいるのだろう。まったく恣意的であるかのようなものごとの一部はわたしにとって必須のものとなっているが、その事情は友人にも共有されていない。そしてある営みの一部は仕事として特権化され他の一部はそうではない。絶対者である神と愛しい我が子という分かり易い構図は失われた。にもかかわらず、単独者としてAに応えている限りにおいて、別の他者Bを犠牲にしている(可能性)は否定できない。


ひどくゆっくり蝉が鳴き出した。ひょっとすると蝉ではないかもしれない。
一日が始まる、世界の地の底で人知れず死んで行く子供たちのことを最初から忘却するために私たちは働く。

*1:「およそ他者というものはすべて、まったく他なるものだ。」というのがこの本の訳。