松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

莫言『豊乳肥臀』の「闘争大会」の概要

莫言『豊乳肥臀・上』isbn:4582829384 では、「闘争大会」については第三章内戦の7(p328-347)で扱われる。量が膨大になるが概要を抜き出して見よう。

まず「闘争大会」はそれだけで取り上げることはできない。土地改革とも呼ばれる社会のすべての関係を覆す大きなプロジェクトの一部である。

地区の唖巴が、司馬庫の家の家具や壺などの容器の類を村の民間人の家に配って歩いた。ところが、昼間に分配した物が、夜になるとそっくり司馬家の表門のところに送り返されているのだった。p329

裁判過程や土地の分配だけでなく、それぞれの壺のような小さな物まで分配されたことが分かる。また大衆の側が全面的に歓迎しているわけでもないことが分かる。

司馬糧はさらに、二人かきの駕籠に乗った大物が、長いのや短いのやいろんな銃を持った十八人の用心棒に守られてやって来た、とも言った。その人間の前では、県長の魯も猫に睨まれたネズミみたいにびくつき、爺さまに仕える孫みたいにペコペコしている。
なんでもその人間こそ、かの評判の土地改革の専門家だということだった。p329

大げさに「大物」と呼ばれる人物が、魯立人の後ろ盾であり黒幕を演じることになる。
土地改革について訳者がつけた分註に、「地主の土地・財産を没収して貧農に無償分配した中国共産党の土地政策。1947年以降、中共華北・東北の支配地域でこれを本格化し、農民を味方につけた。物語のこのあたりはその段階を描いている」とある。

 その日、羊を追ってもどってきたわたしたちは、唖巴の小隊と県や地区の幹部たちが、棺桶屋の主人の黄天福、炉包売りの趙甲、油坊[植物油搾り小屋]をやっている許宝、油屋の片乳の金、私塾の先生の秦二などの一行を引っ立てて行くのに出くわした。みんな顔には殴られた痕があり、不安げな表情である。p330

裁きの対象になる人たちである。

その日、高密県東北郷の十八の村や鎮(まち)のいちばん貧乏な人間の代表が黒々と固まって、司馬家のこなし場の半ばを埋めていた。周りには、県や地区の武装隊からなる歩哨が、三歩か五歩間隔で立っていた。(略)
舞台の下はしんと静まり返って、多少とも物の分かる年頃の子供までが、泣き声一つ立てない。もっと幼い子が泣くと、すぐさま乳首を咥えさせられる。(略)わたしたちは母親を囲んで座っていたが、不安に怯えている周りの村民に較べて、母親の落ち着きぶりは際立っていた。母親は剥き出したふくらはぎの上で、一心不乱に布靴*1の底を刺し子にするときに使う細い麻縄を綯(な)っていた。ふくらはぎの片側で、真っ白い麻糸
がしゅるしゅる回る。反対側に、母親の手で絢われたきれいにそろった麻縄が次々と出来上がる。 p331

 闘争大会が始まる前に、会場の外が騒がしくなった。唖巴と地区武装隊の隊員散人が、黄大福や趙甲など十数人を護送してきたのである。みんながんじがらめに縛り上げられ、首のうしろには紙の札を立てられている。そこには黒い字が書いてあり、その上に黒い×印が打ってある。その連中を見ると、みんなは慌てて顔を俯け、四の五の言う者はだれもいない。

 大物はゆったりと座ったまま、二つの黒い目で、舞台下の民間人を何度も眺め渡した。見られないようにみんなは顔を両膝の間に突っ込んだ。

 頭を黒い紐で縛った魯立人が、唾を飛ばしながらひとしきり演説した。頭痛持ちのせいで目は真っ赤、おかげで眼鏡のレンズが、バラの花びらのように光った。
(略)
 咳払いして喉の調子を整えた大物は、うどん粉を伸ばすかつてのマローヤ牧師みたいに、一言ずつ引っ張りながらのろのろとしゃべったので、そのことばは、あたかも長い紙切れが冷たい北風に舞っているように思えた。

魯立人と大物の話の内容は書いていない。集まった聴衆にすでに捕縛されたものたちへの告発を促すものだったのだろう。

 そのとき、みんなの中から痩せた男がよろよろと立ち上がると、かすれた声を震わせて言った。

 「区長……わしは……恨みがありますがの……」

 「分かったわ!」と上官〓*2弟が興奮して叫んだ。

 「恨みがあるなら、構わないから、ここへ上がって言いなさい。わたしたちがついていますからね!」

 みんなの目が、痩せたその男に集まった。男はイネムリムシであった。灰色の纏子の上着はぼろぼろで、片袖は千切れかかり黒い肩が剥き出しになっている。

以前は真ん中できちんと分けていた髪の毛も、カラスの巣みたいにくしやくしゃである。冷たい風にガクガク震えながら、怯えた目つきできょろきょろしている。

 「上がって言いなさい!」と魯立人が言った。

 「たいしたことじゃないから」とイネムリムシは言った。「ここで言えばいいです」p332

最も虐げられた者が、逆転し最も発言する権利を持つ者になった。しかし発言とは、不定形な自己の思いを何らかの規範にそった文章にすることである。そのような能力もなくまた、自分の発言がまじめに受け取られるといった経験もない、おまけに差別的な渾名でしか呼ばれず本名も記憶されていない「イネムリムシ」は、長年の抑圧への反発から言葉を発っしはしたものの後が続かない。
「勘弁してくれ」と発言をためらい始め、司会者上官〓弟の必死の働きかけでようやくしゃべり始める。

 イネムリムシは泰二先生の前に行って、「泰二先生。あんたも学問がある人間なら、いいですかな? あんたに教えてもらっていた時分に、わしは居眠りをしら

ことがありましたろうが? それだけのことなのに、あんたは懲らしめ板でわしの手をヒキガエルみたいにぶっ叩いたあげく、あだ名までつげてくれなさった。

あのときあんた、なんと言うたか、覚えているかね?」

「質問に答えなさい!」と、上官瞼*3弟が大声で言った。

 泰二先生は上を向いて、顎の山羊鬚をおっ立てながら、甲高い声で言った。「古き昔のことで、覚えておらんのう」

 「先生はむろん忘れておろうが、わしはしっかりと覚えていますぞ!」ようやく激昂し始めたイネムリムシは、言うことにも筋が通ってきた。p334

しかし、イネムリムシは自分の存在の奥深くから発する声を、口にしてしまうので、裁判としての議事進行は大きく乱れる。

ネムリムシがつづけた。「司馬庫と言えば、あいつは一人で四人も女房がおるのに、わしには一人もおらんのは、不公平じゃないか!」p335

ここで扱うには大きすぎるテーマを退けたい司会者に、イネムリムシは舞台から降りなさいと言われる。

 イネムリムシは二、三歩歩いて舞台から降りかけたが、なにを思ったか取って返すと、炉包売りの趙甲の耳を捻り上げ、一発張り飛ばして罵った。

 「クソ野郎め! ザマあ見やがれ。司馬車の威勢を笠に着て人をバカにしやがったことを、忘れちゃいまいな!」p336

趙甲は縛り上げられたままイネムリムシに頭突きを食らわせ、イネムリムシは舞台から転がり落ちる。
暴力を振るい興奮してなおも自己の正当性を主張する趙甲に対しては、
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20100710#p1 で引用したように即座に判決が言い渡され、執行される。

 「ほかに恨みのある人はいないの?」上官〓弟が舞台の下に向かって怒鳴った。
 だれかが大きな泣き声を上げた。目の見えない徐仙児で、黄金色の竹の杖をついて立ち上がった。
 「ここへ連れてきてあげて!」と〓弟が叫んだ。
 だれも介添えしようとはしなかった。声を上げて泣きながら、盲人は杖で道を探って、そろそろと舞台のほうへ近づいていく。
(略)
 竹の杖をついた徐仙児は、憎しみのあまりそれで足下をつづけさまに突いて、柔らかい舞台の土をそこだけ穴だらけにした。


 「さあ、徐の叔父さん」と上官〓弟が言った。
 「お役人。あんたたちは、まことわしの仇を打ってくれるのじゃな?」と徐仙児が言った。

 「安心して。さっき張徳成の仇を打ってあげたでしょう?」と扮弟が言った。

 「そんなら言うぞ。司馬庫の畜生め。あいつのせいやわしの女房は死んでしまい、お袋もそれに腹を立てて死んでしもうた。わしはあいつに、二人の人間を殺されたわい……」

 盲人の見えない目から涙が溢れた。

「ちゃんと話してみなさい、大叔[叔父さん。年上の男への尊称]」と魯立人が言った。(略)
 盲人は舞台の上に脆いた。

 地区の幹部の一人が引き起こそうとしたが、「仇を打ってくれるまでは起きないぞ……」と言う。

 「大叔」と魯立人が言った。「司馬庫は法の網から逃れるすべはありまぜん。捕まえたら、すぐさま仇を打ってあげますから」

「司馬庫はどこへでも飛んでいく鳩じゃ。あんたらに捕まえられはせん。命と命の引き替えで、あいつの息子と娘を、政府の手で銃殺にしてもらいたい。県長さん。あんたと司馬庫が親戚じゃということは分かっておるが、あんたが本物の公平なお役人なら、わしの訴えを聞き届けてくだされ。あんたが私情に溺れるようなら、司馬庫が舞いもどったときにひどい目に遭わさ

れずに済むように、この盲人は家にもどって首を吊りますわい」

 ぐっとつまった魯立人が、しどろもどろで言った。

 「大叔、仇も借金も当人の責任と決まったものです。司馬庫がだれかを死なせたとしたら、司馬庫に償わせるほかはない。子供に罪はないんですよ」p340


魯立人は正論を唱えるが、徐仙児は後に引かない。
司会者上官〓弟*4は感情的に反撃し、議事進行は泥沼化してしまう。
進退極まった魯立人は大物に助けを求めるが大物は応答しない。

 ハンカチを取り出して額の汗を拭った魯立人は、両手を頭のうしろに回して黒い紐を締め直すと、青い顔をして舞台の前に進み、みんなに向けて高い声で言った。

 「わが政府は人民大衆の政府だから、人民の意志を実行します。そこでみなさんにお願いだが、司馬庫の子供らを銃殺することに賛成の人は手を挙げてください!」

 「気でも違ったの?」と上官〓弟が激しく突っかかった。

 舞台の下のみんなは深くうなだれて、手を挙げる者も声を出す者もいない。

(略)
「司馬庫の子供らを銃殺しないことに賛成の人は手を挙げてください」と魯立人が言った。

 みんなは依然として深くうなだれて、手も挙げず、声も立てない。

 母親がゆっくりと立ち上がって言った。

 「徐仙児、どうしても命で償わせたければ、わたしを銃殺にするがいい。あんたの母親は首吊りで死んだのじゃない。子宮出血がもとで死んだのじゃ。もとはと言えば、匪賊騒ぎの頃に罹った病じゃ」p341

母親(上官魯氏、上官〓弟の母親であると同時に、司馬庫の義理の母になる)は、ざわざわと落ち着かず怯えを隠している大衆のなかでたった一人際立った落ち着きを見せていた。本来の敵である司馬庫の義理の母であるから殺される可能性は十分あると承知の上での、「私を殺すがよい」といつでも言える深みを保った上での落ち着きである。
稽古不足の役者たちによる見苦しい猿芝居にも似たパフォーマンスの中で、大物以外に落ち着きを保ちつづけていたのはこの母親だけである。その思想的力量に対しても大物は怖れを抱かざるをえなかっただろう。
議事進行の不手際により、司馬庫の子供らを殺すべきでないという魯立人の正論を貫くためには、上官魯氏を殺さざるをえないかのようだ。しかしここで、上官魯氏を殺してしまえば彼女は大きな威厳を保ったまま殺されることになりそれは大物としては絶対さけなければならないことだった。
大物はついに魯立人に命令する。

 魯立人はうなだれて、棒のようにその場に立ちつくしていた。(略)狂ったような目つきでわたしたちを見つめたが、それがまた長いことつづいた。まったく惨めな姿だった。いつまでつづくかと思ったとき、魯立人がついに口を開いたが、乾坤一擲の大ばくちに打って出たときの目つきだった。

 「宣告! 司馬庫の子の司馬糧を死刑に処し、即刻執行する! 司馬庫の子の司馬鳳と司馬凰を死刑に処し、即刻執行する!」(略)
 「孫不言!」魯立人が吼えた。「なぜわたしの命令を執行しないのたり‥‥」(略)
 唖巴がぐずぐずと舞台から降りた。背後に地区武装隊の隊員が二人つづいた。p342

3人の子供の中で一番年長であり一番すばしっこい司馬糧はこそっと逃げる。
唖巴は母親が守っている二人の娘を取り上げにいく。

 母親は胸を突き出して、切り裂くように叫んだ。

 「けだもの! わたしから先に殺すがいい……」

 唖巴に跳びかかった母親は、手を伸ばして顔を引っ掻いた。四本の白い筋ができ、血が溶んだ。

 手で顔を撫でた唖巴は、その指を目の前に持ってきて、なにがついたのかを見極めるかのようにぼんやりと眺めていた。P343

やっとのことで唖巴は二人の女の子を舞台に投げ上げる。
その後、http://d.hatena.ne.jp/noharra/20100705#p1 で引用した「この魯立人を人でなしと思いますか?」発言がある。

(魯立人は)どうにか呼吸を整えると、背中を丸めて白い唾を吐き、肺病病みのように喘ぎながら言った。

 「執行したまえ……」

 舞台の上に跳び上がった唖巴は、二人の女の子を小脇に抱えて、大股に他のほとりへと歩いて行った。p344

唖巴はモーゼル拳銃を持ち挙げ一発撃つが、平常心を失っている彼は外してしまう。
堤防(執行の現場)に突然別の女が登場する。上官魯氏の長女である上官来弟(対日協力者の妻だったので本来殺されても当然だが狂気に陥ったため免除されていた)である。

 真っ直ぐに池を目指してやって来た大姐は、二人の女の子の前に立ちはだかると、「わたしを殺して。わたしを殺して」と狂ったように叫んだ。

 「わたしは司馬庫と寝たから、このわたしが二人の母親だよ!」

 唖巴の心の波立ちは、またも震えだした顎に示されていた。銃を挙げた彼は、暗い調子で「脱−脱−脱(トウオ)-*5」と言った。

 なんの躊躇いもなく上着のボタンをはずした大姐は比類のない美しい二つの乳房を露出させた。唖巴がはっと目を剥いた。顎が地面に落ちそうなほど震える。落ちて砕けて、大小さまざまな瓦のかけらになったら恐ろしい顔になるだろう。そんなことになってはと、手で顎を支えながら、唖巴は心と裏腹に、「脱−脱ーー」とくり返す。

 大姐はおとなしく上着を脱いで、上半身を剥き出した。顔は黒いくせに、躰は磁器の輝きをみせて白かった。陰影な空模様の下で、大姐は上半身裸で唖巴に挑んだ。唖巴の足は途切れがちに進んだが、来弟の前までくると、鋳鉄のようなこの男が、陽に照らされた雪だるまのようにドロドロに融けた。手足はばらばらになり、腸は肥えた蛇のようにそこら中をのたくり、赤い心臓が両手の中で躍った。やっとの思いで散らばった躰の部品をもとの位置にもどすと、唖巴は大姐の前に脆き、両手でその尻を抱え込み、口で臍の穴をチュッチュツと吸った。p345

闘争大会による、二人の女の子処刑はこれで挫折した。*6


以上、このような小説の一部をどう解釈していくのか。そしてさらにこのようなことに類似した出来事が本当に中国各地であったのだろうか。
考え続けたい。

「剥き出したふくらはぎの上で」

という部分が、話の筋には関係ないがけっこう大事だと思ったので、引用を少し追加した。

*1:「革圭」

*2:「目分」

*3:「目分」

*4:司馬の3人の子供は彼女の母が養育していたので彼女にとっても義理の妹のようなものだ

*5:唖巴はオシなのでこれしか発音できない

*6:7/5に書いたように幻想的な二人の騎士による処刑がこの後起こるが、それと「闘争大会」との関わりははっきりしない。